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2008年2月24日 (日)

METライブビューイング「マクベス」

 METライブビューイングによるヴェルディのオペラ「マクベス」を見る(MOVIX京都、24日)。

 これは、アメリカのメトロポリタン歌劇場で上演されたオペラを録画して、日本の映画館で流す試みである。私は、こうしたものは生が一番と考える方だが、関西でめったに上演されない「マクベス」とあって出かけた。

 しかしながら、やはり違和感は大いに感じた。以前、京都南座で「魔笛」が上演されたときに見たが、今回は映画館とあって、スクリーンは見やすいし、音響もいくぶんましにはなった。しかし、映画館の大音響というのは、劇場で聴く音とはまったく違うものである。また、映像もカメラが大きく上下左右に動くし、細かく場面を切り替えたり、歌手をアップにしたりするのも劇場で見るのとは違った視点である。

 これらは、劇場に足を運ばない人たちに退屈させずにオペラを見せる工夫ではあるのだろうが、オペラ・ファンには受け入れられないのではないか。だいたい、アメリカではともかく、日本でオペラファンでもない人が、3500円も払って映画館にオペラを見に行くとも思えない。やはり、足を運ぶのはオペラ好きなのであるから、まずはオペラファンを納得させる上演をすべきであろう。そういう点では、映像は動かしようがないとしても、せめて音量を8割くらいに絞ってほしかった。

 ということで、通常のオペラよりも映画を見るような感覚が強かったが、実際に作品もそうした見せ方をするのにふさわしいものが選ばれたと思う。「マクベス」は、言うまでもなくシェークスピアの原作によるが、それだけあって演劇的である。オペラにつきものの冗長さがなく、展開がスピーディーであるし、場面の劇性も高い。

 だが、肝心の音楽が聴こえてこない。というのは、通常、劇場でオペラを見るときは、視点が限られているし、アップで歌手の表情をとらえることもないから、視覚的楽しみが制限されるために、より聴覚が動員されるのではないだろうか。今回は、視覚重視のために、意識が聴覚に振り向けられる割合が低かったように思う。もちろん、先に述べた音響のひどさや、ヴェルディ初期の作品であり、作品に後期ほどは充実していないということもあるだろう。結局のところ、視覚は印象に残っているが、耳にはあまり記憶が残っていないのである。

 演出は、エイドリアン・ノーブル。舞台を20世紀の内戦が起きたどこかの国に設定している。実際、権力者が政敵を葬り去り、独裁政権を敷くというのは、20世紀には至るところであったことだし、21世紀でも起こりうる設定である。そうした点では、作品を現在につなげる秀逸な設定であると思う。

 また、幕間に紹介された、METのライブビューイングをアメリカの公立高校に無料配信する試みも興味深い。単に劇場に足を運ぶ一部のお金持ちだけではなく、オペラをどのように市民に還元していくかということへの意気込みが感じられる。日本の芸術団体にも見習ってほしい取り組みである。

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2008年2月17日 (日)

京フィル定期公演

 京都フィルハーモニー室内合奏団の第156回定期公演は、ドイツ音楽の真髄と題して、バッハ、ウェーバー、ブラームスの3曲が演奏された。とはいえ、なかなかに凝ったプログラミングである。

 1曲目のブランデンブルグ協奏曲第6番と、3曲目のブラームスのセレナード第2番は共にヴァイオリンがいないという変則的な編成である。今日の指揮者の大山平一郎さんは、ロスアンジェルス・フィルのヴィオラ奏者だっただけに、ヴィオラに偏った選曲である。1曲目では、京フィルの松田さんと共にヴィオラを演奏されたが、演奏だけではうならせるほどにはいかなかった。

 一方、2曲目のフォゴット協奏曲は演奏が素晴らしかった。ソロは、京フィルのファゴット奏者の小川慧巳さん。ファゴットのソロというのはあまり聴く機会がないので、どの程度上手いものかは分からないが、フォゴットという楽器の魅力がよく伝わってくる演奏であった。ポッ、ポッと細かく刻んでも、たっぷりと延ばしても素敵な音がする楽器である。ウェーバーもこんな珍しい曲を書くくらいであるから、この楽器についての理解はあったのだろうと思わせる。

 最後は、ブラームスのセレナード第2番。先に述べたとおりヴァイオリンのない編成で、ブラームスの管弦楽法の実験的な感じがする。後の交響曲ほどではないが、ブラームスが好きな人であれば楽しめる作品だと思う。軽快な両端楽章などは京フィルの管楽器陣ががんばって軽やかな演奏になったが、第3楽章など弦主体のところでは、やや響きの薄さが気になった。とはいえ、めったに聴く機会のない曲なので、楽しませていただいた。

 ファゴットといえば、京響を退団された仙崎さんが京フィルのエキストラで演奏しておられたのが、懐かしく感じられた。

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2008年2月16日 (土)

イノウエ・京響定期

 古い話になるが、先月の京響定期はすごかった。井上道義の指揮でハイドンの交響曲「朝」「昼」「晩」の3曲。編成は通常の半分くらいだし、豪華なソリストがあるわけでもない。年間のプログラムの中では最も地味なプログラムであったが、感動の度合いはそんなものに比例しない。すっきりとした清潔感のある響きは、名手揃いの室内管弦楽団を思わせるものであった。

 さて、今日はいつもの編成に戻って、シューマンとワーグナーというドイツ・ロマン派の管弦楽集である。指揮者は、こちらはデリック・イノウエ。同じイノウエであるが、先月の井上とは大違いである。

 なんといっても響きが重い。先月の倍の奏者がいれば音量も倍になるかといえばそうはいかないところが面白い。少人数でもぴしっと揃えば音は響くし、何人集まってもばらばらであれば打ち消しあってしまう。こういう演奏だとシューマンの野暮ったさがひときわ目立ってしまう。

 一方、後半のワーグナーはなかなかいい。オーケストラのコンサートでワーグナーを聴くというと序曲や前奏曲かジークフリート牧歌あたりを1曲聴くだけということが多いが、それでは華麗に盛り上がるものの、ワーグナーに陶酔するまでには至らない。今日は、タンホイザーの大行進曲、序曲とヴェヌスベルクの音楽、さらにトリスタンとイゾルデから前奏曲と愛の死が演奏された。これだけまとまって聴くとさすがに聴き応えがある。ワーグナーのオペラを聴いていると、同じような音楽が続いているようでいながら、まったく同じことの繰り返しはなく、微妙な変化を伴いながら盛り上がり、また沈静化していくうちに時間を忘れてしまう。そうした感覚が短時間ではあるが体験できた。見事な演奏といってよい。

 ただし、最後にトリスタンとイゾルデの「愛の死」が終わると同時に拍手をするのは何とかならないだろうか。来月のマーラーの9番ではそういったことはやめてほしいとお願いしたい。

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2008年2月 6日 (水)

映画「歓喜の歌」

 「歓喜の歌」といえば、ベートーヴェンの第九。暮れの風物詩であり、この時期に封切るというのは、少し季節はずれな感じのする映画である。

 これは、落語家 立川志の輔さんの新作落語を原作とした映画である。やる気のない文化会館の大晦日に2組のママさんコーラスの予約がダブルブッキングした。譲らない双方のグループの熱意が周囲の人々を変えていくという感動作である。

 志の輔さんの落語自体は聴いていないが、おそらく落語で演じたら面白いであろう文化会館の無責任な主任を小林薫が好演している。とはいえ、こんな人が身近にいたら嫌だろうなあ。

 一方、身近にいてほしいのが、一方のグループのリーダーの主婦を演じる安田成美。久々の映画出演ながら、年齢の割りにキュートで、主婦の落ち着きを持ちながらも、周りを明るくするキャラクターを演じており、関心した。

 とかく、公立の文化施設については、出演者からも聴衆からも評判が悪いところが多いが、この作品が全国の公立ホールで上演されれば、担当者はどんな顔をしてみるのだろうか。

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2008年2月 3日 (日)

びわ湖ホール「ばらの騎士」

 びわ湖ホール・プロデュースオペラの「ばらの騎士」を見た(3日。びわ湖ホール)。

 このホール独自制作のオペラシリーズは、今年からコンセプトが大きく変わっている。昨年までは、前音楽監督の若杉弘さんの下、ヴェルディの日本初演の作品を取り上げてきた。演出は鈴木敬一さん、装置と衣装はイタリア人によるオリジナルで、京都市交響楽団と東京オペラシンガーズが常連であった。また、歌い手さんも外国在住の人を含めて、所属団体にこだわらない人選がなされていた。

 それが、今年から音楽監督が沼尻竜典さんに代わって方針を変更し、神奈川県民ホール、二期会との共同制作で、海外の演出家を起用する形になった。私としては、そろそろ若杉・鈴木ラインがマンネリ化してきたので、この方針は歓迎であるが、聴衆の入りは今ひとつかんばしくなかったのが残念である。

 その原因としては、首都圏など関西以外からも集客できるような魅力的な作品、舞台が作れなかったことにもあるだろうが、この現代演出が関西で根付いていないということも大きいのではないかと思う。

 今、欧米の最先端では、オペラをそのままの時代考証で上演するのではなく、時代や場所を変えるなど大胆な読み替えが試みられているが、関西ではこれまでほとんどお目にかからなかった。今回上演された「ばらの騎士」は、古きよきウィーンが舞台であるが、舞台上にあるのは、白と黒を貴重にした簡素な箱である。まさにミニチュアの箱庭を見ているかのような雰囲気である。これを面白いと見るか、物足りないと見るかは趣味の問題であるが、それ以外にも訳の分からない部分はたくさんある。

 日本人には、こうした芸術なりを見て、すべてが理解されないと気持ちが悪いという人が多いような気がする。何か分からないがすごい、というものもあってよいはずだが、説明が付かないものが残るのは何かもどかしいものである。今回の公演では、午前中にワークショップがあり、演出家が直接演出意図を説明されていたので、聞かれた方は一部は理解できたと思うが、それでもまだ理解できないところが多い。

 でも、世の中の事柄の大半は理解不能なのであるから、それはそれでいいのではないかと思う。舞台を見て、分からないところがあるのは、聴衆の責任ではない。むしろ、いろいろに解釈できる楽しみを与えてもらったとも言えるのである。

 そういう意味では、理屈っぽいドイツ人の構成した舞台であるが、理詰めで考えようとする男性向きの舞台とも言える。一方、演出的には、女性が優位に描かれ、男性が貶められているようで、その点は女性の方が共感できるかもしれない。

 粗野というより暴力的ですらあるオックス男爵とその付き人、弱腰で優柔不断なオクタヴィアン、名誉にこだわり世間体を気にするファーニナルなど、男性はいずれも時代に取り残された人々である。それを元帥夫人やゾフィーは、古い衣装を脱いで新しい世界を向かっていく。まさに女性賛歌の物語である。

 こうした舞台をオペラ好きの関西の女性達が支持してくれれば、このオペラシリーズは根付いていくと思うが、果たしてどうだろう。

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2008年2月 2日 (土)

アルティブヨウ公演

 アルティ・アーティスト・プロジェクト第4回ブヨウ公演を見る(2日。府民ホールアルティ)。

 望月則彦氏の振り付けによるバレエが2本上演された。

 前半は、ヴィヴァルディの四季から春と冬に振付けられた「ナニゴトもなかった日々」。バレエの稽古場での一幕をあらわしているということである。同趣向は、バランシンの「セレナーデ」など多数あるが、恋心が大きなテーマになっているのが特徴である。とはいえ、人物関係が複雑というか、整理されていないようで、筋が分かりにくい。振り付け、踊りとも消化されていない感じがした。

 後半は、シチェドリンによって弦楽と打楽器に編曲された「カルメン」を使用した、題名もそのまま「カルメン」。このシチェドリンのカルメンは、カルメンを男性に置き換えたAMPの「カーマン」でも使用されたが、今回の上演では、ストーリーもカルメンを忠実に踏襲しているので、分かりやすい。

 こちらは、カルメンを踊った福谷葉子が出色の出来。男を惑わすような妖艶さはないが、柔らかさと力強さの同居した踊りは見ものであった。ホセは、東京バレエ団の高岸直樹さん。こちらは、ホセの純情さはよく表れていたが、ダンスの切れは今ひとつ。男性陣では、スニカのクードリャ・アンドレイとエスカミリオの桑田充の方がよかった。

 作品は、群舞による盛り上がりもあり、心情表現もありで、なかなかの出来。ただ、後半になるとカルメンとホセの心情表現が多くなり、若干だれたが、全体的にはよくできていた。カルメンを単なる浮気性の女性ではなく、カルメン自身の苦悩を表現できており、この作品の読み方としても納得させられるものであった。

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