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2008年3月30日 (日)

歌わせたい男たち

永井愛作・演出の「歌わせたい男たち」を見る(30日・びわ湖ホール)。

これは、ある都立学校において君が代の伴奏をする音楽教師と、それに反対する社会化教師、君が代を全員に歌わせたい校長らが繰り広げられるコメディーである。以前、上演されたときに話題になった作品だが、そのときは都合がつかず見られなかったのであるが、今回、再演に際し、ようやく見ることができた。

さて、なかなかよくできた芝居である。君が代の伴奏に関しては、劇中でも触れられているように裁判になっており、タイムリーでもあり社会性もある。しかし、舞台は一学校の音楽教師、社会科教師、校長らのきわめて人間性のあるミクロな物語でもある。そして、大いに笑えて、考えさせられて、・・・そして少し怖くなる話である。

この作品、外国の人に説明しても、今、現にこの日本で起きている話だとはとうてい信じてもらえなかったという話を聞いたが、日本人である我々が見たら、すごく理解できる話でもある。君が代を強制するのはおかしいという社会化教師の主張も、愛国心を養うためにも君が代を歌わせようとする校長も、主義主張にこだわらないいわゆるノンポリの音楽教師も、みんな身近にいる人たちである。

そして議論をしても、議論にならず、次第に感情論や泣き落としになるというのも、日本人の本質をついている。まさに、現代を、日本を、我々を描いた作品である。

最後は、舞台では結論は出ない。音楽教師は君が代を弾いたのか。社会科教師は起立したのか。いろいろな解釈があると思う。そう、いろいろ考えられるのが芸術のよさなのだ。この考える余地を残すという演劇の終わり方が、この問題に対する解答なのだ。

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2008年3月17日 (月)

京フィル定期「古典派への道程」

 京都フィルハーモニー室内合奏団定期演奏会を聴く(16日。京都コンサートホール)

 今回の聴きものは、モーツァルトのピアノ協奏曲第23番のソリストを務めた佐藤奏夢さん。これで「かなむ」とお読みする。ご両親もたいそう音楽好きではないかと感じられるお名前であるが、若干19歳、桐朋学園大1回生である。

 コンクール受賞歴を見ても、3位などが多いが、なかなかどうして逸材である。今回の指揮者の有田正広さんが共演して惚れ込んだというのもうなずける。

 舞台に登場する姿はぎこちないというか、どこか無愛想な感じもするが、ひとたびピアノに向かえば、音楽を口ずさみながら実に楽しそうに演奏される。モーツァルトの魂が舞い降りたというのが言い過ぎならば、「ピアノの森」のカイ並みである。

 両端楽章は浮き立つような軽快さ、音楽の高揚と共に自然にテンポが動き、今まさに即興で音楽が生み出されているかのような自由な感じがする。中間楽章の悲しいぐらいに美しい音楽も印象的である。全体の構成力というよりも、その一瞬が素晴らしいというタイプである。

 アンコールのトルコ行進曲もまた個性的であり、聴衆をびっくりさせようというサービス精神と、弾いている本人が最も楽しんでいるような、音楽の喜びにあふれた演奏であった。

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2008年3月 9日 (日)

京響定期・マーラー9番

 常任指揮者が変わる瞬間というのは、最もよい演奏ができる可能性が高いと思う。これまで常任としてオーケストラと築いてきた関係の総決算となる演奏会であるから、その最高の成果が発揮されてしかるべきである。

 そういう意味で、その最後の演奏会に指揮者とオーケストラの力量が試されるマーラーが持ってこられるのは必然かもしれない。井上道義のときは5番、そしてムントと今回の大友直人が9番を最後に取り上げた。

 その出来としては、確かにオーケストラの力量はこの7年で向上しているのは確かに感じられた。第1楽章の叙情性というか、あふれるロマンティシズムも大友さんらしい。しかし、強奏する場面での音の汚さは今後の課題であろう。今日は京響には珍しい16型であったが規模の大きさに伴うダイナミクスが感じられなかったのが残念である。

 演奏については、全体に長さを感じる演奏であったが、最後の音が消え入る瞬間の美しさは見事であった。音が消えても、オーケストラも聴衆も全力で無音を作り出していた。音を出さなくても、無音で感動させるというのが究極の姿であれば、確かに今日、コンサートホールに実現した瞬間は奇跡の瞬間であった。最後の最後で大友さんは聴衆に素晴らしい時間を与えてくれた。

 さて、4月から広上時代が始まる。新しい京響の姿にとても期待している。

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2008年3月 1日 (土)

エイジオブエンライトメント管「ヨハネ受難曲」

 先週のオペラを映画館で見る楽しみと対極にあるのが、バッハの「受難曲」を生で聴く感激ではないだろうか。今日の京都コンサートホールの入りは決して多くはなかったが、それだけに集まった人々が音楽に耳を澄ます雰囲気が感じられる至福の一時であった。

 優れた音楽は全人類の共通の財産と言えるだろうが、ことバッハの「受難曲」について言えば、キリスト教徒でもなく、ドイツ語も分からない多くの日本人にとっては、ドイツの人々と同じように味わうことはできないと思う。だが、それでもバッハの音楽はすごいと思わせる演奏であった。そして、何か荘厳な儀式に参加しているような気分を味わわせてくれる演奏会だった。

 このヨハネ受難曲は、新約聖書のヨハネによる福音書からキリストが捕縛され、十字架につけられるまでが題材になっている。この福音書の最初が有名な「初めに言(ことば)があった。」というフレーズである。今日は、演奏に先立ちこの冒頭が松村雄基さんによって朗読された。

 これから音楽を聴く前に「初めにことばがあった」というのも変だろうという気がするが、確かにこの曲についていえば、まず言葉があって、そしてそれに音楽が従っているという気がする。言葉のフレーズがあって、それが音楽にそのまま転化している感じである。こういったことはよい演奏者でないと分からない。今日のエイジ・オブ・エンライトメント管弦楽団とエンライトメント合唱団は、まさに最上の演奏者である。管弦18人と合唱12人の合計30人ながら、よく整った響きで、楽器が歌のように、歌が楽器のように演奏されるので、まさにバッハのつけた音楽がドイツ語の発音を絶妙に生かしているのが分かる。そして、実際に楽器と歌とが同じニュアンスで歌われ、奏でられるのでその効果は倍増する。

 福音史家のマーク・パドモアも素晴らしい。ソロだけでなく、合唱の一員も兼ねているので休憩なしでほぼ2時間歌いっぱなしである。これを4日間で3公演やるのであるから、並みの体力、というか声の強さではない。それでも、声をセーブしているとか、疲れたという感じは一切なく、全力で歌いきっている感じである。

 こうした演奏を聴くと、なかなか並みの日本人の集団では演奏できない作品だと思う。音楽によってとても癒された1日であった。

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