2008年2月 6日 (水)

映画「歓喜の歌」

 「歓喜の歌」といえば、ベートーヴェンの第九。暮れの風物詩であり、この時期に封切るというのは、少し季節はずれな感じのする映画である。

 これは、落語家 立川志の輔さんの新作落語を原作とした映画である。やる気のない文化会館の大晦日に2組のママさんコーラスの予約がダブルブッキングした。譲らない双方のグループの熱意が周囲の人々を変えていくという感動作である。

 志の輔さんの落語自体は聴いていないが、おそらく落語で演じたら面白いであろう文化会館の無責任な主任を小林薫が好演している。とはいえ、こんな人が身近にいたら嫌だろうなあ。

 一方、身近にいてほしいのが、一方のグループのリーダーの主婦を演じる安田成美。久々の映画出演ながら、年齢の割りにキュートで、主婦の落ち着きを持ちながらも、周りを明るくするキャラクターを演じており、関心した。

 とかく、公立の文化施設については、出演者からも聴衆からも評判が悪いところが多いが、この作品が全国の公立ホールで上演されれば、担当者はどんな顔をしてみるのだろうか。

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2007年7月30日 (月)

ケネス・ブラナーの魔笛

モーツァルトのオペラ「魔笛」を映画化したものを見る。監督は、イギリスのケネス・ブラナー。よって、魔笛の歌詞も英語になっている。

チラシ等では設定は、第一次世界大戦前夜のヨーロッパとなっている。確かに、服装や武器などはその当たりの時代を設定しているようである。ただし、ザラストロの城などから考えると、何となく第一次世界大戦ころというような感じの、どこでもない時代のどこでもない場所による架空の世界と考えた方がよいのかもしれない。

さて、タミーノが大蛇に襲われて気絶するという本来の設定よりも、戦場で死にかけるというこの映画の設定の方が現実味はある。ただし、そのような読み替えで全編説明がつくのかというとそうでもない。原作でもよく分からない3人の童子の立場など、この映画でも良く分からないままである。よって、私としては読み替えに成功しているとは思えない。いや、確かにいろいろな評論を見ると、ケネス・ブラナーの込めた意味を解説したりしているのだが、私に理解できなければ、意味がないのと同じことである。

ところで、オペラを映画化したものを劇場で見たのは久しぶりだが、この魔笛に関していえば、正直しんどかった。というのは、全編にあふれているモーツァルトの音楽がくどい。普通、映画やテレビドラマを見ても、音楽が使われているのは一部分だけである。大半はセリフだけや、場合によっては静かなシーンもある。ところが、ここでは全編にわたってモーツァルトの音楽でぎっしりと埋め尽くされているのである。劇場でオペラを生で見るときは、ぼーっとしたりもできるが、映画館では大音量でいやおうなしに音楽と向き合わされる。これは、なかなかに苦痛である。モーツァルト責めである。

ということで演奏の善し悪しをここで論じるつもりはない。映像は、確かに美しい場面もあった。序曲は音楽とよくシンクロしていたし、パパゲーノが鳥のように飛び回る「一人の娘っ子か女房がいれば」なども楽しい。ということで、悪くはない映画であるが、やはり映画よりも兵庫に佐渡さんの魔笛を聴きに行くべきだったと若干後悔している。

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2007年6月16日 (土)

ロストロポーヴィチ人生の祭典

チェロの巨匠・ムスティスラフ・ロストロポーヴィチが亡くなったのは今年の4月のことである。私は、この人のチェロも実演で聴いたこともあるし、指揮も経験した。それぞれ生での演奏会は、感銘を覚えるほどのものではなかったが、CDではショスタコーヴィチなど愛聴している録音も多く、なじみのある音楽家ではあった。

そのロストロポーヴィチと彼の妻のガリーナ・ヴィスネフスカヤの2人を追った映画を見た。彼の晩年の姿を追った貴重な記録として、意義深いものであるが、娯楽作品としてみると、これほど退屈な映画もない。

全体は2部に分けられている。前半は、2人へのそれぞれのインタビューがメインとなっている。彼が、20世紀ロシアの偉大な作曲家、プロコフィエフとショスタコーヴィチについて語っているのはとても興味深いが、それだけでは映画にならない。全体につくりが硬く、ロシア語のナレーションともあいまって、どうにも面白みがない。

後半は、ロストロポーヴィチが、小澤征爾が指揮するウィーンフィルとの共演でペンデレツキの新作を初演するシーン(主に練習風景)と、ヴィシネフスカヤが若い歌手にオペラの曲をレッスンするシーンが交互に挟まれる。前半は言葉で二人を語らせたのに対し、後半は音楽で二人の人生が語られる。そして、それぞれの音楽のシーンを交互につなぐことで、二人の人生がシンクロしていくようになっている。

とはいうものの、もっとじっくりと音楽のシーンを撮ってほしかった。二つの全く異なる音楽が、あっちへ行ったりこっちへ行ったりするというのは、まったくもって音楽的でない。こちらは、映画として凝ったのかもしれないが、かえって音楽を殺しているとしか思えない。

音楽家を主題にした映画であるにもかかわらず、非常に非音楽的な映画である。

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2007年4月30日 (月)

神童

クラシック音楽の世界を描いた漫画としては、最近では「のだめ」が大ブレークであるが、元々のだめと共に評判の高かったのが、さそうあきら原作の「神童」である。今回、この神童が映画化されたので、見に行った(ちなみに、のだめのTVドラマは全く見てません。)。

元々、音のない絵だけの漫画という媒体で、音楽を語るというのは非常にたいへんであろうと思われるが、絵も音もある映画という媒体では、それも容易な話である。それだけに、原作のすごさが伝わって来にくいものになってしまった。いや、むしろこれは、絵でしか伝えられない世界だったのかもしれない。

というのも、例えば、世界的な巨匠が舌を巻き、ホール一杯の観客が立ち上がって拍手をするような演奏というのが想像できるだろうか。そんな演奏を絵や文章で見て、頭の中で音楽を鳴らすことはできるかもしれない。しかし、実際に音楽でそれを表すのは難しいだろう。今回のオーケストラの演奏も、クライマックスであるが、それほど感動するような演奏には聴こえなかった。

ストーリー的には、原作を2時間程度の映画に収めるために、やや欲張った感じがする。それぞれのエピソードが十分に展開されずに、並べられた感じがする。例えば、主人公うたの耳の病気についても、重要な要素だがあまり映画の中で生かされていなかった気がする。

とはいえ、「日本初本格クラシック映画」というのは言いすぎにしても、音楽が好きな方にはおすすめしたい映画である。

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2007年4月 1日 (日)

第1回京都クラシック映画祭

元・立誠小学校で開かれた第1回京都クラシック映画祭の最終日を見ました。最近の映画館はどこもフカフカの椅子になりましたが、パイプ椅子で1日映画を見続けるのは、なかなか腰が痛かったです。

最初は、チャップリンの初期作から多忙な一日、チャップリンの画工、チャップリンの衝突、夫婦交換騒動、メイベルの結婚生活の5本(邦題は映画祭パンフレットによる)と、邦画で牛原虚彦監督の「感激時代」が上映された。チャップリンの映画はいずれも1914年に封切られた作品で、それぞれ味があるものの、続けて見ると、いずれもチャップリンが殴り合いをしたり、すっころんだりしているばかりで、もう一つ面白みがでない。やはり後の長編とは大きな違いが見られる。

午後の最初は、「独裁者」が上映された。チャップリンがヒトラーを模した独裁者に扮して、地球儀を回したりする、説明の用がないほど有名な映画だ。チャップリンは、初期の映画では、なぐったり、蹴ったり、レンガを投げあったりしているが、いずれも一方的な展開になることはなく、殴った者が次には殴り返されている。それに対し、権力者や強者が一方的に行う暴力(その最たるものが戦争であろう。)については、徹底的に嫌っていることが分かる。

一方、ユダヤ人を迫害していたナチスに対抗するアメリカの映画製作者の思惑も強く感じられる。我々、日本人は芸とか遊びというものは政治や外交などとは離れたものだと考えがちであるが、欧米では常に芸術と政治は隣り合わせの位置にあることが実感できる。最後に、独裁者と間違われた床屋が民主主義を訴える演説を行う。独裁者の愚かさを糾弾するかのようで、独裁者と床屋を同じチャップリンが演じ、そして、民主主義を兵士に訴える演説が次第に熱を帯びてくるのを聞いていると、民主主義という思想の下に戦争を行うことも、独裁者と変わらない危険を抱えていることが伝わってくる。公開当初に大衆からそれほど支持を受けなかったというのもなんとなくうなずけるものがある。

最後の映画は、「担え銃」。1918年封切りの無声映画であるが、第二次大戦後の再公開時にチャップリンがつけた音楽を、京都市交響楽団メンバーの生演奏付きで上演された。この無声映画とオーケストラの生演奏の組み合わせというのは初めて体験したが、なかなか素晴らしい。昔の映画というと映像もさることながら、音声によっても古さが実感されるものだが、生演奏が付くことにより、私の感覚としては、1940年に撮られた「独裁者」よりも生々しく感じた。それとともに、映画では珍しくライブ感覚が味わえたのも良かった。音楽やダンスやお芝居のような生の肉体が目の前にあるものに比べて、映画というのはどこか別の世界でできあがった完成品を見ている感じがするが、今日に限っては、まさにこの場で作品が生まれてくるという、コンサートなどに近いものを感じた。

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2007年3月21日 (水)

合唱ができるまで

「車ができるまで」とか「ビールができるまで」というのは工場見学に行けばみられるが、「合唱ができるまで」を目にする機会というのは、合唱団に入ってでもいない限り、なかなかお目にかからない。この映画は、パリのアマチュア合唱団が、ひとつの作品を練習し、本番を迎えるまでのドキュメンタリーである。

何かを練習して、本番を迎えるまでの血と汗と涙の物語というのは、しばしばテレビでも取り上げられたりする。そこでは、本番を迎えるまでの苦労とか、挫折を乗り越える努力だったりとか、そういったものがインタビューも交えて構成されていたりするが、この映画にはそういったシーンは一切ない。合唱団の団員が何を思っているか、どういう経歴の人なのか、合唱をしていないときは何をしているのか、そういったある意味余計なものは排されて、ひたすら練習の様子がつづられる。それは淡々としているが、うそ臭さがなく、かえって感動的である。

完成品としての本番は、必ずしもレヴェルの高い演奏ではないかもしれない。しかしながら、その完成品に至る詳細な過程を見ているだけに、そこにかける陰の努力と工夫には圧倒させられる。合唱の指導者が、単に音程をそろえるだけが仕事ではなく、発音から、呼吸法から、姿勢から、テキストの意味内容まですべての事柄に意を尽くし、小学生の子どもから、大人の人まで意欲を高め、練習に集中させ、感情を一体化させるという作業は、おそろしく高度で、丁寧で、愛情にあふれたものである。

何よりも練習風景が楽しそうである。映画を見ながら、一緒に声を出し、身体を動かし、リズムをとりたくなる。そんな練習である。このような指導者に恵まれた合唱団は非常に幸せだろうと思う。こんな合唱団があれば入りたいという人は多いのではないだろうか。

ともかく、合唱における奥の深さをかいまみた以上、これまでのようにブログで「合唱が下手だ」とかそういったようなことは安易に書けないなあと思った。

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2006年12月24日 (日)

敬愛なるベートーヴェン

年末の第九シーズンにあわせて公開された「敬愛なるベートーヴェン」。第九の初演シーンがチラシなどでは大きく取り上げられているが、主役は、「第九」ではなく、「弦楽四重奏曲・大フーガ」である。

この第九と大フーガ。片や日本中知らぬ人がない超有名曲と、渋い弦楽四重奏であるが、この映画では、2曲の晩年の作品が陽と陰のように扱われている。共にベートーヴェンが従来の音楽の枠組みを超える作品として取り組み、第九は聴衆の大喝采を浴びるが、大フーガは最も身近で信頼する人物からも理解されない。しかし、ベートーヴェンの最後の瞬間に、その作品が理解されるときが来る。そこに至る主人公(ベートーヴェンではなく、アンナ・ホルツという女性)の心の動きを静かに追っていく作品である。

だだ、恋愛映画でもなく、かといって音楽で盛り上げるわけでもない、後半の淡々とした雰囲気は、まさにベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲の世界を地で行く感じである。音楽に大事なのは、音と音の間の沈黙、余白であるとベートーヴェンは映画で語る。しかし、映画で余白に語らせるのは難しい。この映画がそれに成功しているのかは見る人にゆだねざるを得ない。しかし、第九がすきという人が見に行っても、肩透かしを食らうのではないだろうか。大晦日にでも一人で映画館に行くと、しみじみとしていいのでは、という作品である。

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