2008年6月 7日 (土)

高関健のマニアな世界

 京響513回定期は、高関健さんの指揮で、少し変わったプログラムが披露された(6日。京都コンサートホール)。

 1曲目は、メンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」。ただし、メンデルスゾーンがロンドンで初演した後に、翌年に2楽章以降を改定した際の楽譜によるものである。通常の版に慣れた耳には、かなり違和感を感じさせる。一般に異稿というと、改訂版が決定稿とされ、初演版が埋もれていたりするものだが、この曲では初演版が決定稿となっている。この異稿があとにできたはずだが、むしろ初演版の方がすっきりとまとまって感じられる。というよりも、初演版の方が外面的な華やかさがある。それに対して、この稿は、やや渋い仕上がりとなっている。どちらがいいかと優劣をつけるべきものではないが、このイタリア交響曲の何か底抜けな明るさが気になる私としては、今回の異稿の方が、より3番や5番の交響曲の世界に近く、好きである。

 続いて、バルトークのヴァイオリン協奏曲第2番。独奏は、松山冴花さん。仙台コンクールの覇者で、関西でも何度も演奏されているが、聞くのは初めて。難曲だが、音の力強さが印象的である。大きい音から小さい音まで、また、高い音も低い音も、どのような場面でも十分な響きを保って演奏できる人であり、オーケストラに負けない演奏として、実に協奏曲のソリスト向きである。曲自体は、あまり好きではないので、ヴァイオリンの独奏だけが印象として残った。

 ここまで前半2曲が終って8時25分である。短いプログラムならば終演の時間であるが、ここから休憩を挟んで後半は、オネゲルの交響曲第3番。近現代の曲を得意とする高関さんらしい選曲である。こうした曲はオーケストラが上手いと映えるが、今回は京響がかなり健闘して、見事な演奏になった。

 最後にコンサートマスターのニキティン氏の退団が発表された。これからコンサートマスターが渡邊さんだけになるがどうするのだろう(シンフォニカーから移籍した田村さんを昇格させるのか?)

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2008年5月26日 (月)

新イタリア合奏団

 コカコーラによる招待公演。招待されて言うのも何であるが、京都コンサートホールの大ホールに10名強の弦楽合奏団というのは、少し迫力不足である。いずみホールくらいの規模のホールで聴くともっとすごかっただろう。というのは欲張りか。

 今日は、チェンバロの曽根麻矢子さんとフルートの高木綾子さんがゲスト参加。共にJクラシックを代表する才色兼備の人気ソリストである。ただし、これも楽器の性格もあって少し物足りない。

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2008年4月27日 (日)

オペ管「リゴレット」(演奏会形式)

 ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団の第41回定期演奏会として、ヴェルディの「リゴレット」が演奏会形式で取り上げられた。指揮は、今年度から山下一史の後を次いで首席に就任した韓国人のチャン・ユンスン。

 オーケストラの定期演奏会なので、まずは管弦楽から。ヴェルディの作品は、びわ湖ホールが積極的に取り上げてきたので比較的たくさんの作品に接しているが、今日はとてもオーケストラが軽やかだった。これは、編成やホール、作品などにもよるが、ヴェルディというイメージよりもロッシーニと言ってもよい雰囲気を持っている。それは決してマイナスではなく、この陰惨なドラマを浮き浮きとした明るさでもって進めたし、歌を引き立たせる役割を果たした。この指揮者はなかなか注目してもよい人かもしれない。

 歌では、題名役の田中勉さんが抜きん出て素晴らしい。声量はもちろん、感情表現なども含めてベテランの存在感を示した。

 ジルダの松下美奈子さんも若いが素晴らしいソプラノである。清潔感のある歌い方と、オーケストラに負けない張りのある声の持ち主である。コロラトゥーラなど正確に歌おうとするためか固い感じがするが、舞台経験を重ねられればきっとよい歌手になられると思う。

 公爵の小餅谷さんはやや不調か。といってもベストの状態は存じ上げないのだが。この歌の一番の聴かせどころである女心の歌(風の中の羽のように~)を歌っても、まったく拍手すらおきないのは、かわいそうですらあるが、完全に前の2人に食われた感じである。ただ、この曲がずばっと決まらないと、何か損をしたような気になるのも確かである。

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2008年4月20日 (日)

京フィル「現代音楽の楽しみ」

 京都フィルハーモニー室内合奏団の第158回定期公演は、「現代音楽の楽しみ」と銘打った、現代音楽づくしのチャレンジングなプログラミングである。

 こうしたプログラムの例にもれず、いつもの定期公演よりも客席に空席が目立ったが、楽団と聴衆の双方が育つこのような演奏会は、大事である。

 1曲目は、ジュリアン・ユーのPhilopentatoniaは、五音音階を基本にした作品。とはいっても、現代音楽的色彩が強いので、五音音階とか、中国風というのはそれほど意識せずに聴いた。冒頭の自然の中に吹き渡る風が起こす音のような部分から、音楽が次第に増殖していく様など、なかなか面白い。

 2曲目は、松村禎三のアプラスの庭は、フルート、ヴァイオリン、ピアノによるトリオの作品。フルートの竹林さんのフルートが魅力的。

 3曲目は、バッハの「フーガの技法」を今日の指揮者の野平一郎さんが編曲した作品から3曲が抜粋して演奏された。バッハは、もちろんずっと過去の作曲家であるが、東京では、バッハと現代作品を並べて演奏するシリーズがあるように現代曲との相性がよいようだ。それは、バッハの機能的なところが、現代作品に通じるからかもしれない。今日の場合は、現代作品の中に置かれた一服の清涼剤か。2曲目の「オクターブのカノン」のマリンバ、ハープ、チェレスタの出す幻想的な響きは格別

 後半の4曲目は、武満徹の「ア・ウェイ・アローン」。オーケストラの定期演奏会になぜか弦楽四重奏?という感じだが、今日のプログラミングの中ではしっくりとくる。武満さんの響きとかしか言いようのない音楽にうっとりとさせられる作品

 そして最後が、指揮の野平さんの作品「ドゥーブル」。これが結局、一番難解だった。他の作品は、それぞれ野平さんによるていねいな解説があったが、この曲の解説が分かりにくかったからかもしれない。やはり自分の作品を語るというのは、気恥ずかしさがでるのだろうか。それとも他人の作品だからこそ、客観的な視点で、的確なコメントができるものなのか。

 いずれにせよ、それぞれ編成も違えば、音楽の雰囲気も違うという演奏する側にとってはたいへんそうだが、聴いている方は楽しいプログラミングだった。

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2008年4月19日 (土)

京響の新しい時代へ

 京都市交響楽団の新しい常任指揮者 広上淳一さんを迎えての初めての定期演奏会が開かれた(18日。京都コンサートホール)。

 常任指揮者が変わったといって即座にオーケストラが変わるものではないだろう。しかし、今日の演奏は、いつもの大友さんの演奏とは明らかに違う音楽を奏でていた。それは、広上さんと楽員との新しい音楽を作ろうという意気込みの現われだろうか。

 確かに、音がそろっているかといった点だけでいえば、大友さんが振ったときの方がバランスが整えられ、聴きやすい音になっているのは確かである。そうした点から見れば、今日の演奏は、キズの多い演奏ということになるだろう。

 しかし、大友さんが常に端正な演奏を崩さなかったのに対し、広上さんの棒の下に繰り出される音楽は、表情が豊かで、魅力的である。

 前半のハイドンのロンドン交響曲は、1月に井上道義さんの指揮で演奏された前期の交響曲と違い、最後期の作品らしく、華麗で明るい演奏に仕上がっていた。最近のサクサクっとした軽いハイドンとは違い、時代考証よりも音楽の楽しさを優先させたような演奏である。

 後半のシェエラザードも、京響のレヴェルの高さを活かした選曲である。広上さんの指揮にまだなじまないのか、精度は今ひとつであるが、これまでの京響から聴かれなかった、積極的で力強い演奏が聴かれた。

 これまで、京響は、上手いが、おとなしいオーケストラと言われてきたが、これを機に、上手くて、かつ、熱く燃える演奏を期待したい。

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2008年4月 6日 (日)

梯剛之「ベートーヴェン3大ソナタ」

梯剛之さんのピアノ・リサイタルを聴いた(5日・京都コンサートホール)。基本的に、ピアノのソロリサイタルというのは、ほとんど聴かないが、以前梯さんの弾いたモーツァルトを実演で聴いて、その透明感あふれる演奏に惹かれたので、出かけてみた。

今回は、オール・ベートーヴェンである。月光、テンペスト、熱情という有名曲揃いである。印象としては、以前のモーツァルトとはかなり異なる。一言でいうと、かなりアバウトな感じのする演奏である。

最初の月光から、かなり揺らいだ演奏である。これが梯さんの呼吸なのだろうが、素人が弾いていたら不安定な演奏と言われかねない。では、演奏としてダメかというと、まったくそんなことはない。むしろ、きちっと弾かれる方が退屈である。梯さんという人間が見える演奏で、たいへん興味深かった。

テンペストや熱情では、かなり激しい表現が見られた。これは以前のモーツァルトでは見られなかったタッチである。梯さんは、目が見えないために、音には厳しく、決して汚い音は出さない人かと思ったが、これらの演奏ではむしろ汚いといってよいほど激しい演奏が見られた。これも、微妙なところではあるが、ベートーヴェンが乗り移ったかのような気迫で演奏されると、強い説得力を持つ。きっと、ベートーヴェンも、当時の人がおどろくような荒々しい演奏をしたのだろうと、想像させられる演奏である。

そんな中、一番感動したのは、熱情の第2楽章である。ここでの変奏曲は、まさにモーツァルトばりの美しさ。変奏曲の名人ベートーヴェンの得意技が、モーツァルトによって再現されているかのような、新鮮な表現であった。やはり、梯さんにはモーツァルトがふさわしいのではないか。そう思わせる演奏であった。

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2008年3月17日 (月)

京フィル定期「古典派への道程」

 京都フィルハーモニー室内合奏団定期演奏会を聴く(16日。京都コンサートホール)

 今回の聴きものは、モーツァルトのピアノ協奏曲第23番のソリストを務めた佐藤奏夢さん。これで「かなむ」とお読みする。ご両親もたいそう音楽好きではないかと感じられるお名前であるが、若干19歳、桐朋学園大1回生である。

 コンクール受賞歴を見ても、3位などが多いが、なかなかどうして逸材である。今回の指揮者の有田正広さんが共演して惚れ込んだというのもうなずける。

 舞台に登場する姿はぎこちないというか、どこか無愛想な感じもするが、ひとたびピアノに向かえば、音楽を口ずさみながら実に楽しそうに演奏される。モーツァルトの魂が舞い降りたというのが言い過ぎならば、「ピアノの森」のカイ並みである。

 両端楽章は浮き立つような軽快さ、音楽の高揚と共に自然にテンポが動き、今まさに即興で音楽が生み出されているかのような自由な感じがする。中間楽章の悲しいぐらいに美しい音楽も印象的である。全体の構成力というよりも、その一瞬が素晴らしいというタイプである。

 アンコールのトルコ行進曲もまた個性的であり、聴衆をびっくりさせようというサービス精神と、弾いている本人が最も楽しんでいるような、音楽の喜びにあふれた演奏であった。

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2008年3月 9日 (日)

京響定期・マーラー9番

 常任指揮者が変わる瞬間というのは、最もよい演奏ができる可能性が高いと思う。これまで常任としてオーケストラと築いてきた関係の総決算となる演奏会であるから、その最高の成果が発揮されてしかるべきである。

 そういう意味で、その最後の演奏会に指揮者とオーケストラの力量が試されるマーラーが持ってこられるのは必然かもしれない。井上道義のときは5番、そしてムントと今回の大友直人が9番を最後に取り上げた。

 その出来としては、確かにオーケストラの力量はこの7年で向上しているのは確かに感じられた。第1楽章の叙情性というか、あふれるロマンティシズムも大友さんらしい。しかし、強奏する場面での音の汚さは今後の課題であろう。今日は京響には珍しい16型であったが規模の大きさに伴うダイナミクスが感じられなかったのが残念である。

 演奏については、全体に長さを感じる演奏であったが、最後の音が消え入る瞬間の美しさは見事であった。音が消えても、オーケストラも聴衆も全力で無音を作り出していた。音を出さなくても、無音で感動させるというのが究極の姿であれば、確かに今日、コンサートホールに実現した瞬間は奇跡の瞬間であった。最後の最後で大友さんは聴衆に素晴らしい時間を与えてくれた。

 さて、4月から広上時代が始まる。新しい京響の姿にとても期待している。

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2008年3月 1日 (土)

エイジオブエンライトメント管「ヨハネ受難曲」

 先週のオペラを映画館で見る楽しみと対極にあるのが、バッハの「受難曲」を生で聴く感激ではないだろうか。今日の京都コンサートホールの入りは決して多くはなかったが、それだけに集まった人々が音楽に耳を澄ます雰囲気が感じられる至福の一時であった。

 優れた音楽は全人類の共通の財産と言えるだろうが、ことバッハの「受難曲」について言えば、キリスト教徒でもなく、ドイツ語も分からない多くの日本人にとっては、ドイツの人々と同じように味わうことはできないと思う。だが、それでもバッハの音楽はすごいと思わせる演奏であった。そして、何か荘厳な儀式に参加しているような気分を味わわせてくれる演奏会だった。

 このヨハネ受難曲は、新約聖書のヨハネによる福音書からキリストが捕縛され、十字架につけられるまでが題材になっている。この福音書の最初が有名な「初めに言(ことば)があった。」というフレーズである。今日は、演奏に先立ちこの冒頭が松村雄基さんによって朗読された。

 これから音楽を聴く前に「初めにことばがあった」というのも変だろうという気がするが、確かにこの曲についていえば、まず言葉があって、そしてそれに音楽が従っているという気がする。言葉のフレーズがあって、それが音楽にそのまま転化している感じである。こういったことはよい演奏者でないと分からない。今日のエイジ・オブ・エンライトメント管弦楽団とエンライトメント合唱団は、まさに最上の演奏者である。管弦18人と合唱12人の合計30人ながら、よく整った響きで、楽器が歌のように、歌が楽器のように演奏されるので、まさにバッハのつけた音楽がドイツ語の発音を絶妙に生かしているのが分かる。そして、実際に楽器と歌とが同じニュアンスで歌われ、奏でられるのでその効果は倍増する。

 福音史家のマーク・パドモアも素晴らしい。ソロだけでなく、合唱の一員も兼ねているので休憩なしでほぼ2時間歌いっぱなしである。これを4日間で3公演やるのであるから、並みの体力、というか声の強さではない。それでも、声をセーブしているとか、疲れたという感じは一切なく、全力で歌いきっている感じである。

 こうした演奏を聴くと、なかなか並みの日本人の集団では演奏できない作品だと思う。音楽によってとても癒された1日であった。

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2008年2月24日 (日)

METライブビューイング「マクベス」

 METライブビューイングによるヴェルディのオペラ「マクベス」を見る(MOVIX京都、24日)。

 これは、アメリカのメトロポリタン歌劇場で上演されたオペラを録画して、日本の映画館で流す試みである。私は、こうしたものは生が一番と考える方だが、関西でめったに上演されない「マクベス」とあって出かけた。

 しかしながら、やはり違和感は大いに感じた。以前、京都南座で「魔笛」が上演されたときに見たが、今回は映画館とあって、スクリーンは見やすいし、音響もいくぶんましにはなった。しかし、映画館の大音響というのは、劇場で聴く音とはまったく違うものである。また、映像もカメラが大きく上下左右に動くし、細かく場面を切り替えたり、歌手をアップにしたりするのも劇場で見るのとは違った視点である。

 これらは、劇場に足を運ばない人たちに退屈させずにオペラを見せる工夫ではあるのだろうが、オペラ・ファンには受け入れられないのではないか。だいたい、アメリカではともかく、日本でオペラファンでもない人が、3500円も払って映画館にオペラを見に行くとも思えない。やはり、足を運ぶのはオペラ好きなのであるから、まずはオペラファンを納得させる上演をすべきであろう。そういう点では、映像は動かしようがないとしても、せめて音量を8割くらいに絞ってほしかった。

 ということで、通常のオペラよりも映画を見るような感覚が強かったが、実際に作品もそうした見せ方をするのにふさわしいものが選ばれたと思う。「マクベス」は、言うまでもなくシェークスピアの原作によるが、それだけあって演劇的である。オペラにつきものの冗長さがなく、展開がスピーディーであるし、場面の劇性も高い。

 だが、肝心の音楽が聴こえてこない。というのは、通常、劇場でオペラを見るときは、視点が限られているし、アップで歌手の表情をとらえることもないから、視覚的楽しみが制限されるために、より聴覚が動員されるのではないだろうか。今回は、視覚重視のために、意識が聴覚に振り向けられる割合が低かったように思う。もちろん、先に述べた音響のひどさや、ヴェルディ初期の作品であり、作品に後期ほどは充実していないということもあるだろう。結局のところ、視覚は印象に残っているが、耳にはあまり記憶が残っていないのである。

 演出は、エイドリアン・ノーブル。舞台を20世紀の内戦が起きたどこかの国に設定している。実際、権力者が政敵を葬り去り、独裁政権を敷くというのは、20世紀には至るところであったことだし、21世紀でも起こりうる設定である。そうした点では、作品を現在につなげる秀逸な設定であると思う。

 また、幕間に紹介された、METのライブビューイングをアメリカの公立高校に無料配信する試みも興味深い。単に劇場に足を運ぶ一部のお金持ちだけではなく、オペラをどのように市民に還元していくかということへの意気込みが感じられる。日本の芸術団体にも見習ってほしい取り組みである。

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2008年2月17日 (日)

京フィル定期公演

 京都フィルハーモニー室内合奏団の第156回定期公演は、ドイツ音楽の真髄と題して、バッハ、ウェーバー、ブラームスの3曲が演奏された。とはいえ、なかなかに凝ったプログラミングである。

 1曲目のブランデンブルグ協奏曲第6番と、3曲目のブラームスのセレナード第2番は共にヴァイオリンがいないという変則的な編成である。今日の指揮者の大山平一郎さんは、ロスアンジェルス・フィルのヴィオラ奏者だっただけに、ヴィオラに偏った選曲である。1曲目では、京フィルの松田さんと共にヴィオラを演奏されたが、演奏だけではうならせるほどにはいかなかった。

 一方、2曲目のフォゴット協奏曲は演奏が素晴らしかった。ソロは、京フィルのファゴット奏者の小川慧巳さん。ファゴットのソロというのはあまり聴く機会がないので、どの程度上手いものかは分からないが、フォゴットという楽器の魅力がよく伝わってくる演奏であった。ポッ、ポッと細かく刻んでも、たっぷりと延ばしても素敵な音がする楽器である。ウェーバーもこんな珍しい曲を書くくらいであるから、この楽器についての理解はあったのだろうと思わせる。

 最後は、ブラームスのセレナード第2番。先に述べたとおりヴァイオリンのない編成で、ブラームスの管弦楽法の実験的な感じがする。後の交響曲ほどではないが、ブラームスが好きな人であれば楽しめる作品だと思う。軽快な両端楽章などは京フィルの管楽器陣ががんばって軽やかな演奏になったが、第3楽章など弦主体のところでは、やや響きの薄さが気になった。とはいえ、めったに聴く機会のない曲なので、楽しませていただいた。

 ファゴットといえば、京響を退団された仙崎さんが京フィルのエキストラで演奏しておられたのが、懐かしく感じられた。

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2008年2月16日 (土)

イノウエ・京響定期

 古い話になるが、先月の京響定期はすごかった。井上道義の指揮でハイドンの交響曲「朝」「昼」「晩」の3曲。編成は通常の半分くらいだし、豪華なソリストがあるわけでもない。年間のプログラムの中では最も地味なプログラムであったが、感動の度合いはそんなものに比例しない。すっきりとした清潔感のある響きは、名手揃いの室内管弦楽団を思わせるものであった。

 さて、今日はいつもの編成に戻って、シューマンとワーグナーというドイツ・ロマン派の管弦楽集である。指揮者は、こちらはデリック・イノウエ。同じイノウエであるが、先月の井上とは大違いである。

 なんといっても響きが重い。先月の倍の奏者がいれば音量も倍になるかといえばそうはいかないところが面白い。少人数でもぴしっと揃えば音は響くし、何人集まってもばらばらであれば打ち消しあってしまう。こういう演奏だとシューマンの野暮ったさがひときわ目立ってしまう。

 一方、後半のワーグナーはなかなかいい。オーケストラのコンサートでワーグナーを聴くというと序曲や前奏曲かジークフリート牧歌あたりを1曲聴くだけということが多いが、それでは華麗に盛り上がるものの、ワーグナーに陶酔するまでには至らない。今日は、タンホイザーの大行進曲、序曲とヴェヌスベルクの音楽、さらにトリスタンとイゾルデから前奏曲と愛の死が演奏された。これだけまとまって聴くとさすがに聴き応えがある。ワーグナーのオペラを聴いていると、同じような音楽が続いているようでいながら、まったく同じことの繰り返しはなく、微妙な変化を伴いながら盛り上がり、また沈静化していくうちに時間を忘れてしまう。そうした感覚が短時間ではあるが体験できた。見事な演奏といってよい。

 ただし、最後にトリスタンとイゾルデの「愛の死」が終わると同時に拍手をするのは何とかならないだろうか。来月のマーラーの9番ではそういったことはやめてほしいとお願いしたい。

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2008年2月 3日 (日)

びわ湖ホール「ばらの騎士」

 びわ湖ホール・プロデュースオペラの「ばらの騎士」を見た(3日。びわ湖ホール)。

 このホール独自制作のオペラシリーズは、今年からコンセプトが大きく変わっている。昨年までは、前音楽監督の若杉弘さんの下、ヴェルディの日本初演の作品を取り上げてきた。演出は鈴木敬一さん、装置と衣装はイタリア人によるオリジナルで、京都市交響楽団と東京オペラシンガーズが常連であった。また、歌い手さんも外国在住の人を含めて、所属団体にこだわらない人選がなされていた。

 それが、今年から音楽監督が沼尻竜典さんに代わって方針を変更し、神奈川県民ホール、二期会との共同制作で、海外の演出家を起用する形になった。私としては、そろそろ若杉・鈴木ラインがマンネリ化してきたので、この方針は歓迎であるが、聴衆の入りは今ひとつかんばしくなかったのが残念である。

 その原因としては、首都圏など関西以外からも集客できるような魅力的な作品、舞台が作れなかったことにもあるだろうが、この現代演出が関西で根付いていないということも大きいのではないかと思う。

 今、欧米の最先端では、オペラをそのままの時代考証で上演するのではなく、時代や場所を変えるなど大胆な読み替えが試みられているが、関西ではこれまでほとんどお目にかからなかった。今回上演された「ばらの騎士」は、古きよきウィーンが舞台であるが、舞台上にあるのは、白と黒を貴重にした簡素な箱である。まさにミニチュアの箱庭を見ているかのような雰囲気である。これを面白いと見るか、物足りないと見るかは趣味の問題であるが、それ以外にも訳の分からない部分はたくさんある。

 日本人には、こうした芸術なりを見て、すべてが理解されないと気持ちが悪いという人が多いような気がする。何か分からないがすごい、というものもあってよいはずだが、説明が付かないものが残るのは何かもどかしいものである。今回の公演では、午前中にワークショップがあり、演出家が直接演出意図を説明されていたので、聞かれた方は一部は理解できたと思うが、それでもまだ理解できないところが多い。

 でも、世の中の事柄の大半は理解不能なのであるから、それはそれでいいのではないかと思う。舞台を見て、分からないところがあるのは、聴衆の責任ではない。むしろ、いろいろに解釈できる楽しみを与えてもらったとも言えるのである。

 そういう意味では、理屈っぽいドイツ人の構成した舞台であるが、理詰めで考えようとする男性向きの舞台とも言える。一方、演出的には、女性が優位に描かれ、男性が貶められているようで、その点は女性の方が共感できるかもしれない。

 粗野というより暴力的ですらあるオックス男爵とその付き人、弱腰で優柔不断なオクタヴィアン、名誉にこだわり世間体を気にするファーニナルなど、男性はいずれも時代に取り残された人々である。それを元帥夫人やゾフィーは、古い衣装を脱いで新しい世界を向かっていく。まさに女性賛歌の物語である。

 こうした舞台をオペラ好きの関西の女性達が支持してくれれば、このオペラシリーズは根付いていくと思うが、果たしてどうだろう。

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2008年1月18日 (金)

ミケーレ・インチェンツォ(Cl)

 人に誘われてクラリネットのリサイタルに出かけた。奏者は、ミケーレ・インチェンツォさん。イタリアやアイルランドのオーケストラなどで活躍されていた方のようである。

 そもそもリサイタルというのは、あまり苦手である。歌、ヴァイオリン、ピアノ、ギターなどは聴けるが、それ以外というのは珍しい。だいたい、同じ楽器を2時間も聴いていると飽きてくるたちである。

 そういう意味でいうとクラリネットばかりというのも、なかなかきつい。クラリネットの音が最も美しく響く音域というのがあるが、ソロの魅力を示すために低音から高音まで駆け上がったりするのだが、やはり低すぎる音や高すぎる音はちょっとツラい。また、細かい音を連ねるよりも、ある程度、音を引き延ばした方がクラリネットの魅力がでると思うが、技巧的な曲が多く、ややせわしない感じがする。

 全体的に音量の変化も少なく、音色も似通っているので、ピアノやヴァイオリンほどの多彩さもない。という意味では、何曲か演奏されたが、印象がどれも同じような感じがして、1曲ずつのイメージがわかない。

 とはいえ、日ごろオーケストラの一部になっているクラリネットを取り出して、その魅力を味わえたことは貴重な機会だったと思う。

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2008年1月12日 (土)

京フィル・ニューイヤーコンサート

 今日は、京都フィルハーモニー室内合奏団のニューイヤー・オペラコンサートを聴いた。

 前半はお約束のJ.シュトラウス。テレビでウィーン・フィルのニューイヤーコンサートが中継される影響だろうが、日本人はウィンナワルツが好きである。この時期、ウィーンと名の付く団体が毎年、いくつも日本に押し寄せるので、ワルツの好きな人はそちらへ行ってもらえばよいと思うが、今年は京響も京フィルも共にウィンナ・ワルツで新年の幕開けとなった。

 確かに気楽に聴ける楽しい音楽だとは思うが、いい加減退屈するのも事実である。どちらかというと軽快で短いポルカなどは飽きないが、「ウィーンの森の物語」やら「美しく青きドナウ」やらはあまり好きではない。まあ、新年早々、穏やかな平和な心地になるのは確かであるが。なお、京フィルの演奏が悪かったというわけではない。シンフォニックな京響に比べて、小編成でこちらの方が本場っぽかったくらいである。念のため

 シュトラウスの後は、ルロイ・アンダーソン。今年は生誕100年の年であるが、こちらは、いずれも特色があって、聴いていて楽しい。トランペット吹きの子守歌、タイプライター、ブルータンゴ、春が来たの4曲で選曲もいい。タイプライターなど打楽器奏者がソリストの位置で演奏してくれたが、なかなか忙しそうで、神業だなと思った。

 後半は、メノッティのオペラ「電話」。男性が彼女のもとに結婚を申し込みに行くが、電話に邪魔され、なかなか伝えることができない。最後は、男性が部屋の外から彼女に電話をして、やっと伝えられるというストーリーである。コミカルなオペラだが、何事も電話に頼る彼女の姿は、携帯電話がないと生きていけないという最近の若者の姿と重なって、なかなか現代にも通じる風刺性を有している。

 アンダーソンよりも3つ若いメノッティの音楽は、アンダーソンにもどことなく似ていて、電話を楽器でまねるなど楽しい感覚がある。時間も30分ほどの短い作品で、集中力が続く範囲なので、話にすっと入っていける。まさに、現代のオペラという感じである。

 ルーシーの島崎政子とベンの津國直樹は、ともに演技も達者で、日本語の歌詞もわかりやすく、よく演じられていたと思う。

 最後が、結婚で終わるのも新年らしい明るい終わり方で、気分よく家路につけた。J.シュトラウスだけでない、こんな素敵なニューイヤーコンサートもあってもよい。

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2008年1月 6日 (日)

タブラトゥーラ

 今日は、タブラトゥーラの演奏会、もとい初笑いライヴを聴きました。

 ごぞんじ、つのだたかしさん率いる古楽器集団ですが、クラシックの演奏会とは全然違い、みんなで手拍子は叩くは、最後は客席みんなで踊りだすわといった感じで、それこそライヴと銘打つにふさわしいイベントです。

 古楽器といえば、クラシックの世界でも最もアカデミックな香りのするジャンルですが、レッド・プリーストのように型破りな演奏が出てくるところもあり、2面性があるのが面白いところです。

 もちろんタブラトゥーラには、お堅い学問的なところはありません。それぞれ一流の奏者ながら、昔の演奏を再現しようといった感じではなく、今に生きる聴衆を楽しませる演奏をしてくれます。だいたい、楽器もいろんな時代のいろんな国の楽器の寄せ集めみたいなものですし、曲もほとんどがオリジナルですから、当時の演奏を再現するという一般の古楽演奏とは目指すものが大きく違うのでしょう。

 しかしながら、いろんな楽器であってもそれが絶妙に溶け合うのが古楽器の魅力です。それは、主に木でできていて、親しい関係にあるからでしょう。現代の大ホールに向けた鋼鉄の固まりであるピアノや、金管楽器ではこのようにブレンドされないでしょう。

 そういう意味では、古楽器の魅力をよりよく伝えるという意味においては、正当な古楽器奏者と同じ方向で、いやそれ以上の実績を挙げているとすらいえるかもしれません。ぜひ、あれはクラシックじゃないという食わずぎらいの方がおられれば、一度聴いてみてくださいとお勧めしたい演奏家です。

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京響ニューイヤーコンサート

 今年の最初のコンサートは、京都市交響楽団のニューイヤーコンサートとなった。指揮は、来る4月から常任指揮者に就任するマエストロ広上淳一である。

 昨年末には、大フィルや大阪センチュリーなどを聴く機会が多かったが、久々に聴く京響はやはり安定している感がある。しかしながら、技術は高いがもうひとつ面白みに欠けるところがあったが、広上さんに率いられる今後の変貌が期待されるところである。

 今日の前半はモーツァルトが2曲(交響曲第32番、協奏交響曲変ホ長調)。いずれも、響きが豊かで軽やかであるが、聴き応えのする演奏である。協奏交響曲のソロを務めた京響の各首席奏者もいい演奏だった。

 後半は、ニューイヤーといえばJ.シュトラウス。この時期は、本場ウィーンの団体も数多く来日するが、そうした団体の軽やかさというか華やかさにはかなわないが、シンフォニックできっちりとしたシュトラウスを聴かせてくれた。純粋にクラシックコンサートとしては、こういった精度の高い演奏の方が好ましい。

 いずれも、これまでの広上さんが京響で取り組んできたレパートリーとは少し違うが、意外とどんな曲にも対応できる幅の広さがあると思う。今後の京響と広上さんのコンビに注目である。

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2007年12月31日 (月)

大フィル第九+2008公演

 今年最後のコンサートは、大植指揮の大阪フィルの第九演奏会となった(30日)。その本題の前に、会場で2008~2009の定期演奏会のスケジュールをもらってびっくりしたが、かなり大植色を出してきた感がある。年10公演のうち、大植さんが4公演のほかは、すべて外国人。それも、日本でよく見かける名前ではなく、知る人ぞ知るか、もしくは日本では無名と言ってよい指揮者ばかりである(少なくとも私が実演で聴いたことがある人はいない。)。

 これはある意味、冒険といってよいプログラミングだと思う。これまでで言えば、若杉、外山、秋山、尾高といった重鎮や、下野さんのような若手まで常連というべき指揮者がいたが、それらの人をはずしてどのような音楽が作り上げられるのか興味がつきない。ある意味で、これまでの伝統を一度白紙に戻して、大植色に染め上げるために必要な作業なのかもしれない。

 さて、今回の第九であるが、目を惹くのが4人の独奏者をすべてドイツで活躍する外国人を連れてきたことである。日本全国で数え切れないほどの第九が演奏されていることから、第九を歌えるプロの声楽家は日本人でもごまんといる中、あえてわざわざ外国人で固めたところに大植さんの並々ならぬ決意が読み取れる。

 実際、公演に接してみると、この効果は歴然と感じられる。なんといってもドイツ語にニュアンスが日本人が歌うのとまったく違うことに驚かされる。それは4人そろったときに強く感じさせられるところである。冒頭のバリトン(クリストフ・シュテフィンガー)から歌うというよりも台詞をしゃべるようでいて、それがそのまま歌になっている感じである。

 これは、合唱と比べると明らかである。合唱自体、パワーやそろい具合など関西で聴ける第九としては最上のレベルの演奏をしたと思うが、それでも4人の独唱者と比べると、いかにもカタカナで歌っている感じがする。これぞ日本人の第九といった感じが強い。

 また、オーケストラも先日京都で聴いたときにも感じたが、これも大植さんの手足になりきっていないもどかしさがある。新生大フィルへの脱皮中といった感じだろうか。その蠢きがこの第九の曲想とあっていたため、前回の7番よりは違和感を抱くことなく聴きとおせたのがよかった。

 いずれにしても、これだけ聴きなれた第九を再度、新鮮な気持ちで聴かせてくれた4人の独唱者とそれを起用した大フィルに大きな拍手を贈りたい。そして、多様な指揮者の元、大フィルがどう成長するかを見守っていきたいところである。

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2007年12月11日 (火)

大フィル京都演奏会

大フィルは,実に味ないオーケストラになってしまったのだろうか。

今日は、毎年恒例の大フィルの京都公演を聴いた。思えば大フィルが初めて京都コンサートホールで演奏した曲目は、今日の1曲目と同じ、ベートーヴェンの序曲レオノーレ第3番であった。そのときも、パリ管やN響などと比べても必ずしも上手いオケだとは思わなかったが、なんともいえない重厚さを感じたことを思い出す。ああ、これが朝比奈サウンドかと納得したものである。

一方、今日の演奏だが、いつも聴く京響と比べても上手くないのは、まあアウエーだから仕方ないとしても、大フィルらしいサウンドが聴こえなかったのは残念の一言である。

それは突き詰めると音が軽いのである。これは、指揮者の大植さんが目指している音なのかもしれない。現に今日もヴァイオリンを左右に配置する対抗配置であったが、古楽系の団体で見られるとおり、あまり重厚な音を好む指揮者がとらない配置である。これが、大フィルのベートーヴェンというイメージを完全に裏切ってくれたのである。

これは、メインのベートーヴェン・交響曲第7番でも同じである。さらに言うならば、ノリが悪い。大植さんが身体いっぱいを使って躍動感あふれる指揮をしているが、それがまったく音に反映されないのはどうしたことだろう。客演ではなく、常任というのにこんな反応でよいのかと思ってしまった。

2曲の間には、ブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番が演奏された。独奏はルノー・カプソン。しっかりとした音で、安定感のある演奏。大家の趣すら感じられる堂々とした弾きっぷりであった。対するオーケストラが、この曲に必要な伸びやかさを感じさせてくれないので、全体にはこじんまりした感じに終わったのは、ソリストが素晴らしかっただけにもったいなかった。

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2007年11月30日 (金)

ドレスデン歌劇場室内管弦楽団

いやー、意外な拾い物といってもよい、すばらしい演奏でした。ドレスデン歌劇場は、もちろん世界有数のオペラハウスですが、その奏者からなる室内オーケストラ、って日本向けの出稼ぎ団体か!と思いきや、驚くような演奏でした。

最初は、超有名な「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」。フル・オーケストラで聴くのとはまた違った澄んだ音色は、古楽器の団体を思わせるような、シンプルでいて刺激的な演奏。

続くバッハのオーボエ・ダ・モーレ協奏曲は、オーボエ・ダ・モーレという楽器自体があまり派手な楽器でないせいか、協奏曲らしいソロの華やかさにかけるのが残念

前半最後のヴィヴァルディの冬は、一転して派手な演奏。ソロはコンサートマスターが務めたが、急速なアッチェレランドなどなかなか聴かせてくれる。

後半は、吉松隆の左手のためのピアノ協奏曲「ケフェウス・ノート」。ソロは、館野泉さん。登場する際もややぎこちない感じで「大丈夫か」と思わせるが、演奏はさすが。最初の一音で北欧の森と泉に囲まれた世界を思わせる叙情性はこの人ならではのもの。吉松さんの曲も、弦楽器がざわざわと波をたてるようなところは、シベリウスの曲をも思わせる。全体は、叙情的な部分、激しい現代音楽的なところ、そして軽妙な舞曲風の部分がトリオのように構成され、古典的なたたずまいも感じられる。編成も弦5部にオーボエ、ファゴット、ホルンであるから、モーツァルトと共通である。クラシックな中に現代的なシャープな響きを盛り込んだ吉松さんらしい曲

最後は、モーツァルトの交響曲第29番。編成はさほど大きくないものの、前半から徐々に大きくなってくるからか、十分な迫力が感じられる一方、室内楽的な緊密さも失わない。絶妙のバランスの元に見事な音楽を聞かせてくれた。

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2007年11月25日 (日)

ツェムリンスキーのオペラ「こびと」

びわ湖ホールの今年のテーマは、作曲家「ツェムリンスキー」。管弦楽、室内楽などに続いて、オペラ「こびと」が取り上げられた。その意欲は、企画力ゼロの京都コンサートホールにも見習わせたいぐらいだが、集客力では苦戦しているようである。今日も、空席が目立った。

さて、9月にツェムリンスキーの「人魚姫」をN響で聴いたが、今日あらためてオペラを聴いてみて、どうも自分と愛称が合わない作曲家のような気がする。後期ロマン派らしい分厚いオーケストレーションで管弦楽の魅力はあるのだが、どうもその濃密な響きに頭が付いていかない。同じ時期に活躍した作曲家としては、マーラーやR.シュトラウスなどが挙げられるだろうが、いずれもオーケストレーションは厚みがあるが、その中で「切れ」のあるところがあるが、ツェムリンスキーについてはひたすら甘いという感じがする。

ということで半分、ぼーっと聴いていたが、印象に残ったのは、こびとを歌った福井敬さんくらいだ。この人は、何を歌わせてもうまい。安定していて、はずれのない人である。

オペラは、1時間半もない程度の1幕ものだが、前半に俳優の内田伸一郎と指揮者の沼尻竜典による演劇風の解説があった。また、プログラムも無料にしては異様に充実しているが、ここまで勉強させておいても、しょせんつまらないものはつまらないというだけである。

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2007年11月24日 (土)

チェコフィル「マーラー3番」

チェコフィルは、ウィーンフィルと並んでもっとも日本によく来るオーケストラではないだろうか。ウィンフィルの方は、東京中心なのとチケットが高いのでそれほど聴けないが、チェコフィルはよく聴いている。そして、面白いことにとてつもなくすばらしい演奏をするときと、それほどでもないときがあるんである。今日は、残念ながら後者の方である。

曲目は、マーラーの交響曲第3番。関西ではめったに聴かれない大曲である。今日は、その大曲らしいスケールよりも、長さが際立った感がある。

指揮は、ズデネク・マカール。録音ではなかなかよい演奏を聴かせてくれる人だが、やや音が粗い。重心が低く、全体的に足取りが重い。それによって長さがさらに際立つ感じである。

ただ、それが最後の第6楽章では生きていた。この交響曲、やはりポイントは6楽章であると思う。それまでは、トランペットとかアルトや合唱などの活躍を楽しむ音楽であるが、耳のごちそうは5楽章までで、最終楽章でどこまで魂を響かせてくれるかである。その点については、かなりまで満足がいったのだが、もう少し欲求不満気味である。

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2007年11月18日 (日)

クレーメル&ツィメルマン

ギドン・クレーメルとクリスチャン・ツィメルマンといえば、それぞれ超一流の演奏家であり、その2人の組み合わせが聴けるというのは貴重なことである。通常のヴァイオリン・ソナタでは、ヴァイオリニストの方が活躍していて、ピアノの方は伴奏が専門ということが多いのだが、今回のように個性あふれる2人の競演だと、ヴァイオリン、ピアノのどちらも聞き逃せず、気の抜けない公演である。

最初は、ブラームスの2番のソナタから。総じて普通の演奏である。ピアノの方がやや主張が強いかもしれない。ツィメルマンは自前のピアノを運ばせると聞いたが、これも自前のピアノだろうか。実に明るく、ダイナミックな音のするピアノである。とはいえ、演奏はロマンチックで繊細なところもあり、雰囲気がある。一方、クレーメルは、甘くもならず、淡白すぎることもなく、節度のある演奏。奇人、クレーメルを頭に描くと、少し肩透かしな出だしである。

続いて、ブラームスの3番。曲が2番よりも激しいためか、クレーメルの特質が顔をのぞかせる。やさしい表情も激しい表情も見せるが、どこか醒めたところが感じられる。演奏する姿を見ると、音楽に没入しているようだが、その反面、どこか高みから見物しているような客観的なところが感じられる。

それは、後半のフランクのソナタにも感じられる。クレーメルはアルゲリッチともこのソナタを録音しているが、それにしても最近、変わった曲ばかり取り上げるクレーメルにしては、名曲路線の演目である。このソナタは、ピアノとヴァイオリンが絶妙にからまりあうような曲だが、これまた絶妙な演奏である。クレーメルが切なくすすりなくように演奏するかと思うと、感情が入る直前でひらりとかわすし、ツィメルマンもクレーメルに寄り添うと見せて、勝手に盛り上がったりする。まあ、傍から見ていて仲が良いのか悪いのか分からないカップルというのがあるが、2人の演奏というのはそんな感じである。お互いにどこに惹かれてデュオを組んでいるのか分からないが、お互い合わせるでもなく、ぶつかりあうわけでもない。かといってばらばらでもなく、要所で絶妙に溶け合っているという、何ともおそろしいデュオである。

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2007年11月 4日 (日)

下野・兵庫芸術センター管

兵庫芸術文化センター管弦楽団の第13回定期演奏会を聴く(4日)。指揮は下野竜也。

前半は、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番。思えば、このところベートーヴェンのピアノ協奏曲ずくしである。10月は小菅優による4番と、オリ・ムストネンによる3番を聴いたばかりである。奇しくも10月は同じ下野さんの指揮による京響であった。今日のソリストは、ホールのある西宮出身の河村尚子さん。プロフィールを見ると数々のコンクールの入賞暦のある方であるが、この9月にもクララ・ハスキルコンクールで1位になっておられる。したがって、テクニック的には申し分ないのであろうが、10月に聴いた2人には及ばない。それは、ソリストとしての個性といってもいいし、主張といってもいいのかもしれない。小菅さんもムストネンも一音で聴衆を惹きこんでしまうような魅力があった。オーケストラからピアノに受け渡されるとき、カデンツァに入るときといった要所で、その一音が出せるかどうかが金の取れるプロの演奏会になれるかどうかだとも言える。そういう意味では、まだ勉強中の音楽家の段階の演奏だと思う。近いところで同じ曲を聴いただけにそのような感想を強くした。

さて、勉強中といえば、このオーケストラは、3年間という期間限定で音楽を学ぶ若い方をメンバーとする団体だが、いよいよ設立当初のメンバーにとっては卒業の3年目に入った。パンフレットを見ると、どんどんオーケストラへの就職がかなったメンバーが抜けていっているようだが、そのためか、もう一つまとまりに欠いているように感じる。メンバーの経歴だけいえばコンクールの入賞者も多数おられるようだが、それでも京響や大フィルのようなプロのオーケストラのような音楽にはならない。それが、後半のブルックナーの交響曲第4番で感じたところである。とりたてて大きなミスがあるわけではなく、十分にトレーニングされた演奏であったが、それでも大フィルが奏でるブルックナーとは一味も二味も違う。

では、指揮が悪かったかといえばそうではない。下野さんは、故朝比奈隆の下で指揮研究員として学ばれていただけあってブルックナーは師匠ゆずりで、既に手の内に入っているという感じである。若手でこれだけのブルックナーを振れる人というのは他にそういないのではないかという感じである。テンポが絶妙で、しっかりとした弦楽器を軸に金管が活躍し、うねるような盛り上がりが感じられる。もう既に勉強の段階をすぎて、プロの指揮者として完成されているように思える。できれば、もっと上手いオーケストラでブルックナーを振るところを見てみたいものだ。

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2007年10月28日 (日)

ミュージックフリー

京都コンサートホールで昼の12時から6時まで連続して様々な公演が行われる「ミュージックフリー」だが、今回は意外と客の入りが悪かった。秋の天気のいい1日をずっとホールで過ごすというのも少し奇特な過ごし方かもしれないが、ちょっともったいない感じがする。

全体は5部に分かれているが、一番印象に残ったのは、ソプラノの幸田浩子さん。人気先行かと思いきや、なかなかに歌の実力もある方である。全体的に素直な感じの歌い方である。ソプラノの声質的には、リリコ・レッジェーロであろうか。軽い感じがする。そういう意味では、ルチアの狂乱の場は少し感じが違う。もう少し重さというか、ドラマチックな感じがほしいが、このアリアを歌うのに必要な水準には達していると思う。容姿も美しいので、オペラやオペレッタでも活躍してほしい方である。

もう一つを挙げると、打楽器の宮本妥子さんと中路友恵さんによるプログラムが興味深い。クラシックもいろいろと聴くが、打楽器だけの公演というのはほとんど聴かないので、こういう機会でもなければ、耳にしない音楽ばかりである。

打楽器というのは、クラシックの世界では歴史が浅いだけに、いろいろな可能性があり奥深い楽器である。クセナキスの「ルボンb」は繰り返しのリズムが原始的な興奮を起こさせる曲である。ライヒの「マリンバ・フェイズ」はリズムのずれが知的に計算されていて面白い。ジェフスキーの「大地への賛歌」は植木鉢を叩いて曲を作るという素朴さが印象に残る。ホルストの「木星」をマリンバに編曲したものも原曲のイメージを良く残した素晴らしい演奏であった。

最後の狂言と京都市交響楽団の公演は、同じ趣向で以前にもあったが、今回新作が誕生した。以前の作品は、くるみ割り人形の組曲をベースにした作品で、京響の50周年記念全国ツアーでも取り上げられたので、地方でも聴かれた方もあるかもしれない。今回は、いろんな作曲家の作品を寄せ集めて作られているので、名曲コンサートの趣である。狂言の話は、「ツキ」がないことをぼやく青年が、「月」のかけらを探すうちに人生を見つめなおすという、文章にしてみると駄洒落のような作品である。茂山正邦、茂山茂の両名の好演もあり、話的には面白い。最後、いくぶん道徳的になったのは少し白けるところである。音楽も、キャンディード序曲から、火の鳥、カルメン、マイスタージンガー前奏曲と盛り上がる曲が満載であり、飽きさせない。しかし、狂言の話とクラシックが有機的に連携しているかというと疑問である。狂言は狂言、クラシックはクラシックでもそれぞれ十分に成立すると思うからである。1たす1が単純に2になっただけの企画である。

そう考えると、このミュージックフリー、1+1+1+1+1が何になったのであろう。5以上であればよいが、全体の印象としては3くらいか。

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2007年10月27日 (土)

大フィルUMEDA演奏会

梅田芸術劇場といえば、主にミュージカルなどが上演される会場であるが、定期的にクラシックの公演も開かれているようである。今回、初めてこの会場でクラシックのコンサートを聴いた。

お目当ては、金聖響指揮するところのマーラーの復活。マーラーの交響曲の中でも8番に次ぐスケールを持った大作であり、祝祭的な機会に演奏されることも多い曲である。この曲は、これまで何度も聴いているが、今日の演奏は、一言でいえば、温かみのあるマーラーである。

これが、金さんの指揮によるところか、ホールの音響の特性によるものかは分からないが、マーラー特有の分裂症的な感じが希薄であり、とても真っ当な作品に思える。ある意味で、マーラーが、シューマン、ブラームス、ブルックナーらのロマン派交響曲作家の影を色濃く反映していることが理解できる演奏である。

音質的にも高音や低音よりも中間的な音に厚みがあり、木管、金管の各楽器が溶け合っている感じがする。どんな曲を演奏しても同じように聞こえるのであればホールとして問題があると言わざるを得ないが、クラシック専用でないことを考えると十分な音響である。金聖響の指揮もむやみに感情を爆発させるのではなく、第2楽章や第4楽章の穏やかな部分での極め細やかさが印象的である。「えっ、大フィルってこんな音色だっけ」と思わせるような演奏であった。

ただ、反面、楽章間の違いが際立たないのは残念。第1楽章と第2楽章との間は、作曲者の指示に従い、たっぷりとした時間を置いたが(約3分)、音楽的に第1楽章とそれ以降との違いを感じられなかった。それでも、最後に向かっての盛り上がりは見事。大フィル合唱団も好演であった。

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2007年10月19日 (金)

大阪センチュリー京都公演

大阪センチュリー交響楽団の京都特別演奏会を聴く。指揮は首席指揮者の小泉和裕。

何といっても今日のお目当ては、ベートーヴェンのピアノ協奏曲のソロを務めたオリ・ムストネン。期待にたがわぬ素晴らしい演奏であった。

第1楽章のピアノが最初に登場するところから、既にムストネンの世界に引き込まれてしまった。決してきれいな音ばかりを使うのではなく、硬い音や激しい音も含めて実に多彩な表現である。決してベートーヴェン的ではないかもしれないが、ムストネンのこだわりは感じられる。この多彩な表現を可能にしているのは、素晴らしく粒の揃ったきれいな高音や、左手と右手とのバランス、そして良く回る指といったテクニックに裏付けられていることが感じられる。先週聴いた小菅優もそうだが、現在の第一線のピアニストはそのまま楽譜どおりにベートーヴェンを弾いてよしとはしないのだろう。

これに対してオーケストラは悠然と、それこそベートーヴェンの音楽を奏でている。協奏曲がオーケストラとソロの対話ならば、若造の挑戦を軽く受け止める大家の様相である。それに不満なのか、ムストネンが正に指揮をするかのようにピアノを弾いていた(この人は、実際に弾き振りもする。)。一度、指揮もピアノもムストネンに任せてみたらどのような音楽をするか興味深いところである。

後半は、ブラームスの交響曲第4番。何度も聴いた曲であるが、あらためて名曲と感じた。前半のように演奏者の素晴らしさを感じさせるのが一つの理想の演奏ならば、それよりも曲の素晴らしさを感じさせるのが更に上の理想の演奏ではないかと思う。今日の演奏はまさにブラームスの魅力を存分に味わわせてくれるものであった。各楽章それぞれ味わい深いが、特に「パッサカリア」という古風な形式による第4楽章が印象深い。音楽が盛り上がっては落ち着きと、まさに波のように浮き沈みしながら、進んでいく。その揺れにひたすら身を任せているしかないという至福のひと時であった。

アンコールのバッハの「エア」も見事。ブラームスの古風な第4楽章から違和感なくつながる構成も見事であるが、演奏が終わっても長い沈黙のあいだ誰一人拍手をしなかったお客さんも見事。というよりもその静寂こそが最良の音楽と思える演奏であった。小泉さんの実力を見直した演奏会であった。

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2007年10月13日 (土)

シンフォニーホール・ガラ1

2日にわたって行われる、大阪のザ・シンフォニーホールの開館25周年記念のガラ・コンサートの1日目を聴いた。

ザ・シンフォニーホールは、東京のサントリーホールよりも前に本格的なクラシック音楽専用ホールとして誕生した。私が、最初にこのホールで聴いたのは、1993年のことだと思うので、15年くらいのお付き合いになる。その後、いろんなホールを聴いたが、いまだに最も好きなホールである。

さて、その記念のコンサートであり、ソプラノの鮫島有美子、ヴァイオリンのイリア・グリンゴルツ、ピアノのブーニン、バンドネオンの小松亮太が登場する豪華なもの。オーケストラは金聖響指揮の大阪センチュリー交響楽団。

ところで、ガラ・コンサートというのは幕の内弁当のような感じがする。いろいろとおいしそうな料理が入っているが、何かこれを食べたと言えるものがない。ガラ・コンサートもいろいろな演奏を楽しんだが、これを聴いたとして印象に残るものがないような気がする。

その中で、ヴァイオリンのグリンゴルツが印象に残った。演奏したのは、ヴィエニャフスキの伝説曲とサラサーテのカルメン幻想曲である。特に後者であるが、なかなか個性的な演奏であった。スペインらしさというかラテン系の感じがなく、ややしっとりとした肌触りの演奏である。弱音や特にハーモニクスが見事で、息をつめて見守りたいような繊細な演奏である。技巧的な曲であるが、とりたてて技巧を表に出さないが、それでいてテクニックの素晴らしさが感じられるという素晴らしい演奏である。難しい曲をそうとは感じさせないというのが一番のテクニックではないかと思う。

こういう演奏を聴くと、もっとしっかりとしたプログラムで、協奏曲などを丸々1曲聴いてみたいと思わざるを得ない。そう考えると、ガラ・コンサートは、たくさんの演奏家の演奏が入ったサンプラーCDのようなものかもしれない。

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2007年10月12日 (金)

下野&京響定期

下野竜也さんといえば大フィルの指揮研究員であっただけに、これまでから関西とも縁の深い方だが、今回、京響の定期に初登場された。以前、ふれあいコンサートには呼んでいただけに、定期への登場がもっと早くてもよかったと思われる。

さて、曲目は、バッハ、ベートーヴェン、フランクと一見脈絡がないようなプログラムである。

メインのフランクの交響曲から触れるが、この曲は実演で聴いてあまり感心したことがない曲である。おそらく、ベートーヴェンやブラームスなど一流の作曲家に比べるとオーケストレーションに難があるんだろう。しかしながら、今日の下野さんは健闘したと思われる。様々な楽器をブレンドして、オルガンのような響きを生み出していくところは、ブルックナーを得意とする朝比奈隆の薫陶を受けた下野さんの真骨頂という感じである。

一方、本来、オルガン演奏であったものを編曲したバッハの「パッサカリアとフーガ」の方は、その魅力が十分に活かしきれていない感がある。練習不足か、それともややデッドな京都コンサートホールの響きに上手く対応しきれていなかったからであろうか。

2曲の間には、今大活躍の小菅優をソリストに迎えたベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番。ここでは、小菅さんのソロが光った。ベートーヴェンをじっくり読み込んで、小菅さん流に現代的な感覚で捉えなおされている。いろんなフレーズがとても新鮮であり、あれ、ベートーヴェンってこんな曲を書いていたのかと思わせるような斬新な演奏である。ベートーヴェンらしくないとも思えるが、若さゆえの大胆な挑戦だと思う。京響も上手にサポートしていた。

こう見ていくと、フランクの演奏で朝比奈隆のブルックナーを思わせながら、ベートーヴェンで朝比奈とはまったく違う演奏を作り出す下野さんとは個性的な指揮者だと思われる。

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2007年9月30日 (日)

大友直人のエルガー

大友さんが京響の常任指揮者になって7年目であるが、常任としては最後のシーズンを迎える。最近では、以前の定期で取り上げた曲を再び取り上げることも多く、正直7年というのは長いかなとも思われる。今日の定期で演奏されたエルガーの交響曲1番も、4年前に取り上げたばかりである。

しかしながら、聴いてみると4年前よりは格段の深化が感じられる。エルガーは以前から大友さんの十八番であるから、大友さんの曲への理解が進化したのではなく、大友さんと京響の関係が深化したのであろう。以前は、ひたすら長い中にいきなり金管がバカバカ鳴りたてる騒々しい曲であったが、今日はまさにノビリメンテ(気品のある)で、かつ、堂々とした演奏であった。まさに、京響との関係が一番深まった最良の時期に、自分の最も得意とする音楽でもってその成果を聴衆の脳裏に刻みつけようとするかの演奏である。

その前に演奏されたエルガーのチェロ協奏曲も素晴らしい。独奏の横坂源は初めて聴くが、最近聴いた若手のチェリストでは断然すばらしい。この間聴いた古川さんを上回ることは言うまでもない(古川さんも5年前に京響とこの曲を共演している。)。

エルガーのチェロ協奏曲というと、デュプレの演奏を思わずにはいられない。何枚かあるCDでもついデュプレを選んで聴いてしまうが、横坂さんの演奏にはデュプレにも通じるパッションが感じられる。高い音でも音の厚みをもったまま、一気に突入し、チェロが叫んでいるかのような音を引き出す。一方、チェロ本来の低い音域もオーケストラに負けない堂々とした響きでもってチェロの魅力を堪能させてくれる。

いつもは協奏曲のときは一歩引いた演奏をすることの多い大友さんであるが、今日はエルガーだからか、それともソリストが若いからか、積極的な演奏で、独奏とがっぷり四つに組んだ音楽を聞かせてくれた。

大友さんは、歴代の常任指揮者の中では個性が薄く、後世ではあまり特徴のない時代と語られるかもしれないが、今日の演奏会などは、まさしく大友時代を象徴する一つの演奏として、将来語られるような演奏になったのではないかと思う。

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2007年9月16日 (日)

京都の秋音楽祭開会記念コンサート

京都の秋音楽祭の開会記念コンサートを聴きに行った。このコンサート、以前は市民の招待枠が多く、コンサートホール友の会の枠もあったのだが、今は400名のみの招待で後は有料である。とはいえ、1,000円と格安であるからお得である。しかも、今回はドヴォルザークのチェロ協奏曲とショスタコーヴィチの交響曲第5番という重量級のプログラムである。

最初は、ドヴォルザークのチェロ協奏曲から。ソロは、京都出身ということで何度かこのホールにも登場している古川展生さん。古武道というユニットを組むなどメディアの露出も多い若手チェリストであるが、これまで聴いた印象では、もう一つぱっとしない。今日の印象もたいして変わらなかった。

それはおそらく、協奏曲のソリスト向きでないことにあるのだろう。ソロとしては、オーケストラに埋もれない輝かしい音色とか、立ち上がりのよい発音だとか、激しいパッションとかそういうものが欲しいが、そういったものが希薄である。たまに、少し頑張ると音が粗くなってくる。結局、最後まで協奏曲らしい雰囲気が味わえなかった。

後半の交響曲についても、全体的に地味なところは変わらない。今日の指揮者は高関健さんであるが、オーケストラをまとめる能力は高いだけに実に整った響きはするのだが、いかんせんスケールに欠ける感じがする。今月に入ってからN響、読響と16型の大編成のオーケストラを続いて聴いただけに、なおさら14型の京響はパワーが足りないように感じたのかもしれない。ショスタコらしい、重戦車が攻めてくるような迫力はなく、肩透かしを食らったような感じである。

まあ、安さに釣られて出かけていったので、演奏も値段相応というところでした。

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2007年9月15日 (土)

読響大阪公演

スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ(長いので、以下「SS」)の指揮に接するのは、N響の京都公演以来2回目である。10月で84歳になるのだから非常に高齢であり、来日するだけでも大変だろうが、今年から読売日本交響楽団の常任指揮者に就任している。その関西でのお披露目の公演である。

最初は、モーツァルトの「ドン・ジョバンニ」序曲。といってもブゾーニが編曲したものというからただものではない。そのような版があるということ自体、初めて知ったくらいである。曲は、最初はモーツァルト自身の序曲であるが、途中からドン・ジョバンニの幕切れの六重唱につながるというもの。たいして面白いとも思わないが、モーツァルトの部分は淡々と振っていたSSが、ブゾーニのところに入ると途端に振幅が激しくなるのが面白い。

続いてルトスワフスキの交響曲第4番。ルトスワフスキは「管弦楽のための協奏曲」が有名だが、交響曲を聴くのは、もちろん初めて。最近の現代音楽よりは聴きやすいが、あまり何度でも聴きたい曲ではない。今日は、テレビカメラが入っていたが、この曲は撮影もしていなかったということが、よく物語っている。

本日のメインは、ブルックナーの交響曲第3番。高齢の指揮者でブルックナーといえば、大阪の音楽ファンは故朝比奈隆氏を思い出さずにはいられない。その聖地とも言えるザ・シンフォニーホールにあえてブルックナーをもってくるのであるから、興味をひかれるところである。

それでどうかというと、印象としてはかなり違う。オーケストラの違いも大きいであろう。朝比奈さんの手兵の大阪フィルは、もっともっちゃりしているというか、重心の低い音楽であるのに対し、読響はかなり機能的である。そのため、朝比奈さんでは気づかないような音楽の細部が明らかになるのに対し、スケールが小さく感じられる。SSが振ると、楽章ごとの性格も際立っているし、全体的にきびきびとした感じがして、スマートではあるが、朝比奈さんになじんできた当方としては、ちょっと違うという感想である。

いずれにせよ、これだけの長い曲を譜面も見ずに振りとおすのであるから、たいしたものである。これだけお元気ならば、3回目の指揮姿を見る機会もあるかもしれないと思うと楽しみである。

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2007年9月 3日 (月)

沼尻竜典指揮N響

今年から若杉弘の後を受けてびわ湖ホールの音楽監督に就任された沼尻さんが指揮されたNHK交響楽団の演奏会に行ってきた。さすがにN響だけあり、満席である。

1曲目は、R.シュトラウスの「ドン・ファン」。最初は、久しぶりに聴いたびわ湖ホールの音響に少しとまどったが、慣れてくるとN響のよさが感じられる。京響よりも弦楽器が10人近く多い16型の編成のため、表現に幅があるし、演奏者にも余裕が感じられる。それがメリハリとなって様々な場面を活き活きと描き出している。

2曲目がメインといってもよい、村治佳織を独奏に迎えた「アランフェス協奏曲」。説明を要しないギターの有名曲である。村治さんの演奏は何度か聴いているが、アランフェスは初めてである。

冒頭ギターから始まる最初の数小節で村治佳織の世界に魅了された。実に自然で気負いのない演奏。正確さとか異国情緒とかそういった尺度では測れない魅力がある。思うにプロのギター奏者というのは、生涯に数え切れないくらいアランフェスを弾くのだろうが、今日の演奏は、何年かぶりに久しぶりに弾いてみましたというような新鮮な感じが漂っていた。

続く2楽章もすごい。冒頭のコールアングレのソロを除けばひたすらギターが主役であり、オーケストラの存在が消えてしまうようだ。これも哀愁とかいう表現ではない。一切の人間の感情の入り込む余地のないあるがままの自然の世界である。

第3楽章だけは、オーケストラが主導権を取り、それに合わせた感じがうかがえたが、それでも通してみるとこれまで聴いた実演でもナンバー1の演奏である。これだけでもびわ湖ホールまで出かけたかいがあった。

といっていたら、ほんとにこれだけになってしまった。後半は、ツェムリンスキーの人魚姫という作品。ツェムリンスキーは以前、芦響だったかどこかのアマオケで聴いたが、それ以来であり、おそらくCDも持っていない。私的にはどうでもいい作曲家であるが、その印象は変わらない。確かに魅力的な部分もあるのだが、全体的な構成力が弱いのか、もう一つ集中して聴けない。はっきり言って苦手な作曲家である。

ということで、後半はぼーっと聞いていたが、アンコールのバッハのエア(G線上のアリア)は良かった。良く誰ぞが亡くなったときに追悼で演奏されるが、何ゆえ芸術監督就任演奏会のアンコールにこの曲をもってくるのか不明ではあるが、少しばかりなぞがあった方が今後が楽しみというもんです。

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2007年8月 9日 (木)

ようこそ広上さん!

来年4月から京響の第12代常任指揮者に就任予定の広上淳一が京響の8月定期に登場した。少し早いお披露目演奏会となったが、広上さんらしい魅力が十分に発揮され、来年以降に期待が持てる。

現在の大友さんが端整というかあっさりとした指揮なのに対し、広上さんは身体いっぱいを使ったダイナミックな指揮で、音楽も実に表情豊かである。今日のジークフリート牧歌(ワーグナー)と死と変容(R.シュトラウス)もそんな広上さんの持ち味が生きる選曲であった。

しかし、ここで感じたのは京響を京都コンサートホールで鳴らすということにかけては、大友さんに一日の長があるということである。今日の死と変容では、確かに巨大な音響が実現したが、急にアクセルを踏み込んだような余裕のなさが感じられ、また、音の混濁も見られる。この点、大友さんならば、もっとスマートに山場を築いたであろう。

という点では、これから広上さんがどのように京響を自分のカラーに染めていくかというのは楽しみである。可能であれば、できるだけ多くの公演を広上さんに振っていただき、早く広上さんの手兵にしてほしいものである。

もう一つの楽しみとしては、広上さんの中に「小林研一郎」を感じることである。今日の指揮ぶりでも、手を上げるしぐさや、第一バイオリンに向かって指示するしぐさなどに、小林研一郎を思わせるところがあるのだ。コバケンが京響を去って20年近くがたつが、久々の熱血指揮者の就任だけに、新しい京響がどう産まれ変わるかには大注目である。

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2007年7月30日 (月)

ケネス・ブラナーの魔笛

モーツァルトのオペラ「魔笛」を映画化したものを見る。監督は、イギリスのケネス・ブラナー。よって、魔笛の歌詞も英語になっている。

チラシ等では設定は、第一次世界大戦前夜のヨーロッパとなっている。確かに、服装や武器などはその当たりの時代を設定しているようである。ただし、ザラストロの城などから考えると、何となく第一次世界大戦ころというような感じの、どこでもない時代のどこでもない場所による架空の世界と考えた方がよいのかもしれない。

さて、タミーノが大蛇に襲われて気絶するという本来の設定よりも、戦場で死にかけるというこの映画の設定の方が現実味はある。ただし、そのような読み替えで全編説明がつくのかというとそうでもない。原作でもよく分からない3人の童子の立場など、この映画でも良く分からないままである。よって、私としては読み替えに成功しているとは思えない。いや、確かにいろいろな評論を見ると、ケネス・ブラナーの込めた意味を解説したりしているのだが、私に理解できなければ、意味がないのと同じことである。

ところで、オペラを映画化したものを劇場で見たのは久しぶりだが、この魔笛に関していえば、正直しんどかった。というのは、全編にあふれているモーツァルトの音楽がくどい。普通、映画やテレビドラマを見ても、音楽が使われているのは一部分だけである。大半はセリフだけや、場合によっては静かなシーンもある。ところが、ここでは全編にわたってモーツァルトの音楽でぎっしりと埋め尽くされているのである。劇場でオペラを生で見るときは、ぼーっとしたりもできるが、映画館では大音量でいやおうなしに音楽と向き合わされる。これは、なかなかに苦痛である。モーツァルト責めである。

ということで演奏の善し悪しをここで論じるつもりはない。映像は、確かに美しい場面もあった。序曲は音楽とよくシンクロしていたし、パパゲーノが鳥のように飛び回る「一人の娘っ子か女房がいれば」なども楽しい。ということで、悪くはない映画であるが、やはり映画よりも兵庫に佐渡さんの魔笛を聴きに行くべきだったと若干後悔している。

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2007年7月28日 (土)

京響常任指揮者に広上氏

京都市交響楽団の次期常任指揮者に広上淳一氏の就任が決まったというニュースが飛び込んできた。

http://www.city.kyoto.jp/bunshi/symphony/

昨年まで3年続けて定期演奏会を振っており、今年も来月の定期を振ることから楽団、聴衆ともに支持を得ており、妥当な人選である。というか、次期は広上氏しかないと思っていたが、京都市当局がよく契約までこぎつけたと思い、ほっとしている限りである。

これまで、井上道義がわずらわしくなるかと思うと、定期を1回振っただけのムントを持ってき、それもすぐに3年で打ち切って首席指揮者の大友直人を常任に昇格させるなど実に場当たり的な指揮者選びをしてきた京響であるが、今回はプロセスも含めて周到な感じがする。8月の定期の前に発表するところも話題づくりとしてベストであろう。

さて、広上氏になって京響はどうなるか。指揮者としての音楽性が大友直人よりも高いことは疑いがないだろうが、オーケストラのシェフになるにはそれ以上のものを要求されるだろう。この点、広上は現在、アメリカのコロンバス響の音楽監督であるが、就任したばかりでうまくやってるかどうかは分からない。京響の場合は、特に楽団員を相手にするだけでなく、京都市というお役所をも相手にすることになり、よそのオーケストラ以上にたいへんであろう。小林研一郎、井上道義、ウーヴェ・ムントと歴代の指揮者がいずれも京都市とけんか別れしていることからも、気がかりなところである。

いずれにせよ、大フィルの大植に匹敵するビックネームを得たのであるから、その力を上手く生かして、京響の活躍に期待したい。

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2007年7月22日 (日)

ブライトンホテル リレー音楽祭

7月の恒例 京都ブライトンホテルのリレー音楽祭第491夜は、京響のメンバーを中心とした特別編成による演奏である。

昨日も京響の定期演奏会を聴いたばかりであるが、私のような素人から見ると、2日続けてで違うメンバーと違う曲を演奏できるプロの奏者というのは、おそれいるとしか言いようがない。

注目は、昨年度まで京響のトランペット奏者であった若林さんが指揮をされたことである。っ若林さんは、龍谷大学の吹奏学部の指導などをしたいということで退団されたものである。京響よりも大学の方が魅力があるのかと思うと、京響を愛する私としてはいささか寂しいが、こういった形で京響メンバーと再会した若林さんにお目にかかれるのも嬉しい限りである。

さて、指揮のできばえをうんぬんいうには、聴いた時間も短く、適格に評する自身はない。ただし、最近、題名のない音楽会で見るような素人指揮者さんとは明らかに違うことくらいは分かる(比べるのは失礼だが)。

演奏されたのは、イベールの「ディベルティメント」。昔、佐渡裕さんの指揮で定期演奏会にかかったこともあるが、さすがにホテルのロビーでは、響きのバランスが悪くごちゃごちゃした印象は免れない。だが、音楽祭という「祭り」であるから、細かいことをいうのはなしとしよう。

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2007年7月21日 (土)

大山のドヴォルザーク

京響7月の定期演奏会は、大山平一郎指揮によるドヴォルザークのヴァイオリン協奏曲(独奏:竹澤恭子)と交響曲第7番の組み合わせである。

客演指揮者によってオーケストラの響きががらっと変わることがあるが、今日の京響はとてもアメリカ的な演奏に感じた。ここでいうアメリカ的というのは、ニューヨークフィルやシカゴ響やフィラデルフィア管などの演奏から感じられる、明るく、ダイナミックで管楽器が表に出てくるような演奏のことである。といっても、私もそれほど実演で聴いたことはなく、主に録音から受ける印象ではあるが、それでもヨーロッパの伝統的なオーケストラとは違った特色があるのは、多くの人が指摘するところである。

そういう意味では、京響の高い機能性が発揮された演奏として喜ばしいのかもしれない。しかし、ドヴォルザークがハリウッド音楽のように響いていいのだろうか。もう少し作曲家がちりばめたボヘミアの音楽をていねいに浮き立たせてほしかった。でないとドヴォルザークを並べた意味がない。

ヴァイオリン独奏の竹澤さんもその点ではいい勝負である。ロスアンジェルス・フィルのヴィオラ奏者だった大山さんと、ジュリアードで学んだ竹澤さんだから、相通ずるアメリカマインドがあるのだろうか。全体に大き目の音量で、オケをリードして豪快に弾きまくるのは、アメリカで受けそうなスタイルである。それが今日の演奏にぴたっとはまっていたので痛快である。さすがに世界で活躍されるだけの存在感がある。

オーケストラも生き物であるから、指揮者やソリストに刺激を受けるのはいいことであろう。いつもの大友さんの指揮とは違った面が楽しめた演奏会であった。

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2007年7月11日 (水)

ピアノ三重奏の夕べ

フォゥグ陽子とウィーンフィルメンバーによるピアノ三重奏の夕べを聴く(会場:府民ホールアルティ)。フォゥグ陽子さんというの日本人のピアノの方で、ウィーンに留学され、ウィーンフィルのチェロ奏者のご主人と結婚されている。それにウィーンフィルのヴァイオリン奏者のグローさんを加えたトリオである。

ウィーンフィルの団員が日本から留学される女性の方と結婚される話はよくお聞きする。コンサートマスターのキュッヒル氏もそうである。フォゥグ氏はどこに惹かれたのだろうか。

最初は、モーツァルトのk.564。モーツァルトはピアノの名手だっただけあって、ピアノに魅力的なところが多い。しかしながら、演奏自体は、ピアノが元気がよすぎるというか、弦の2人との雰囲気がマッチしていない感じがする。

続く、ベートーヴェンの大公も、お互いがリードせずに、なんとなく揃っている感じだ。チェロとピアノをたしなむご夫婦の家に、ヴァイオリンを弾く友人と一緒に遊びにいって、残りの3人がその場で急に「合わせてみよう」と言って弾き出したのを横で見ている感じである。本人らの楽しさが聴衆にまで届いていないと言えばよいのか。

後半のブラームスの作品8は、うってかわってプロらしい演奏。3者それぞれが競ったり、譲ったりしながら、音楽を高めていく。聴いている側にも興奮が伝わってくる。ピアノも前半2曲に比べ、ダイナミクスがあり、積極性がある。ご主人のチェロはそれを支える縁の下の力もちである。

日本人女性のおしとやかなところが外国人男性に好まれるというが、このブラームスの演奏どおりの性格だとすると、奥さんの方が気が強く、だんなの方がおおらかそうである。

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2007年6月23日 (土)

ラフマニノフとマーラー

京響第501回定期演奏会は、ラフマニノフのパガニーニの主題による狂詩曲とマーラーの交響曲第4番という20世紀前半に作曲されたロマン派の色彩の濃い甘美な作風の曲目が並んだ。

前半の「パガニーニ~」は、ラフマニノフらしいダイナミックさと、とろけるような美しい旋律が魅力的な作品ながら、彼のピアノ協奏曲と比べると演奏機会の少ない曲である。理由は、20分強という協奏曲にしては中途半端な長さにもあるのかもしれないが、私もちょっと実演に接した記憶が思い当たらない。当夜は、大友さんにしては珍しく、力強い攻めの音楽であったが、こういうときはソリストが目立たないのも実演されない理由かもしれない。演奏としては、もう少し美しいメロディーに酔わせてほしいと思うところも、どことなく流れが上手くいかず、酔うに酔えない演奏であった。

後半はマーラーだが、大友さんの演奏をたくさん聴いていると意外とマーラーがはまるときがある。これまででは、1番や5番は全然だめだが、6番や大地の歌などなかなか聴かせる演奏であった。この4番も上手くツボにはまった感じがある。もともと、マーラーの曲は、分裂症気味で、あちこちで溶け合わない音が自己主張している感じがあるだけに、オーケストラがきちっと合わせてこなくても違和感が少ない。それに比べるとラフマニノフは、オーケストラがきれいに重なったほうが効果がある曲であろう。当夜のマーラーについては、全体的に落ち着いたテンポの中、急ぎすぎることもダレることもないよう、大友さんがていねいに進めているのが分かった。さすがに3楽章などは長さを感じるが、心地よい長さであった。ソロの平松英子さんは、あまり声が出ていない感じだったが、演奏全体の印象を右するほどのものではなかった。

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2007年6月 9日 (土)

リンドバーグの3つの顔

スウェーデンのスーパー・トロンボーン奏者・クリスチャン・リンドバーグ(リンドベルイとも表記されたりもするが)の多彩な、そして多才な一面を堪能させてくれるコンサートである。

最初は、本業のトロンボーン奏者として、ラーションの小協奏曲のソロを演奏した。とはいえ、指揮も兼ねており、舞台の真ん中で仁王立ちになり、指揮もしながら、トロンボーンを演奏する姿はなかなか格好いい。あまりトロンボーンのソロというのは普通のオーケストラのコンサートではお目にかからないが、早いパッセージでめまぐるしくスライドさせているのを見るとなかなかたいへんそうである。ただ、テクニック的に難しそうなところは、トロンボーン特有のバリバリした割れた音になるので、音楽的には美しくない。一方、後半最初の自作のソロ曲は、ゆったりとした部分など、トランペットのように高く、澄んだ響きでトロンボーンの新たな面を見せてくれた。

次は、指揮者として。楽器や歌などで超一流の評価を得ながら、なぜか指揮者にも手を出す人がいるが、なかなか楽器等での評価を超えることができない。先ごろ亡くなられたロストロポーヴィチや、N響音楽監督のアシュケナージなども、指揮よりもチェロやピアノの方がいいのにと思う。リンドバーグの指揮も、現段階ではトロンボーンの合間の余業のレベルを超えていない。左手に指揮棒を持つのは、本職の指揮者では珍しいが、指揮ぶりもなかなか個性的である。だが、その動きがもう一つ音楽に現れてこない。それは、ベートーヴェンの交響曲第7番や、アンコールのグリーグ「山の魔王の宮殿にて」などで感じられた。一方、アンコールのプロコフィエフの古典交響曲など、切れがよく、素晴らしい演奏だったので、よく分からない。

最後は、作曲家。ここまで手を出したら、いつ寝てるのだろうという感じである。トランペットのアントンセンをソロに迎えた「アクブンク ブンカ」はなかなか魅力的な曲である。トロンボーンとトランペットの親近性のゆえか、トランペットの魅力がよく出ている。北欧の清々しい自然を思わせるような澄んだ響きから、突如打楽器を主体とした辺りを切り裂くような一撃が下される。全体に耳なじみがよいが、現代性も感じさせてくれる。どこか、吉松隆の昔の曲を思わせる感じもあり、私の好みでは悪くないセンスだと感じられた。

これらの演奏を引き立てたのが「ノルディック室内管弦楽団」である。特に弦は、渋い独特の響きを持っている。室内オーケストラ規模でありながら、十分な力強さもあり、シンプルな響きの京都コンサートホールでも京響並みの迫力が感じられた。一方、シベリウスの「即興曲」作品5のはかなげな雰囲気も見事である。今日は、お客さんが少なかったが、舞台上で作り出される音楽を、奏者と客席とが息を詰めながら、繊細なガラス細工が身動き一つで崩れてしまうのをおそれるかのような、張り詰めた緊張感を感じた。

これも、リンドバーグを聴こうという質の高い、とういかある意味マニアックなお客さんの集まりだからこその特別な空間である。下手に「のだめカンタービレでおなじみの、ベートーヴェン7番を演奏」などと宣伝して、聴衆を集めようとはしないコンサートホールの見識(というか商売気のなさ)に心から感謝したい。

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2007年6月 3日 (日)

タリス・スコラーズ

16世紀のイギリスの教会で演奏されていた音楽、といえばすごくマイナーでローカルな分野である。当時、作曲した人も、歌っていた人もそれが21世紀の日本で演奏され、地域と時代を超えて人々を感動させるとは思ってもみなかったであろう。

このような音楽を現代に蘇らせた功労者は、このタリス・スコラーズに他ならない。この比類ないアンサンブルは、人の声とは思えない、まさに天使が歌っているような音楽である。

こういった音楽を聴くには、やはり教会という場がいちばんふさわしいのであろうが、日本ではなかなかふさわしい会場がないのかもしれない。その中で、この川西のみつなかホールはなかなか素晴らしい。内装に木を使うホールが多いが、ここは石もあり、そのためか響きが硬質であり、ヨーロッパの教会を思わせる。客席500以下の小ホールながら、天井の高さがある程度あるのもよい。こういった音楽は、上から音が降り注いでくるのが望ましい。

プログラム前半は、イギリスの教会音楽。いずれも比較的ゆったりとしたテンポの中で、ソプラノの高い響きが楽器のように感じられる。男声部は、ごにょごにょとつぶやいている感じで、もうちょっと残響のあるところで聴くと印象が違うかもしれないが、女声部の天上的な響きと対照的である。

後半は、スペインのビクトリアの「レクイエム」。こちらの方が、一般に聴くクラシック音楽により近い感じがする。前半と比べると音楽がよりドラマチックであるし、各声部が有機的に結びついている感じがする。前半が美しさとか、癒しの世界であるならば、後半は動きと感情にあふれたダイナミズムの世界である。

日本にも素晴らしい合唱団は多数あるが、こういった宗教音楽を演奏し、神々しさを感じさせてくれるような団体は存在しない。歴史の違いと言えるかもしれないが、せめてこういった演奏にふさわしい教会型音楽ホールというものはできないものだろうか。

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2007年5月13日 (日)

京響第500回定期

京響が500回目の定期演奏会を迎えた。昨年の50周年と比較すると地味な迎え方ではあるが、歴史の重みを感じさせる大きな節目であるのは間違いない。

今回演奏されたのは、モーツァルトの「ジュピター」とR.シュトラウスの「アルプス交響曲」。なんだ普通の定期と変わらないじゃないか、という気もするが、アルプス交響曲は、10年前の大阪フィルの50周年でも演奏されたように、意外と記念性のある場面で演奏される大曲ではある。アルプスへの登山を描写した音楽が、登山のように一歩一歩の演奏会を積み重ねてきたことに通ずるからであろうか。でも、この曲は、下山途中に嵐にあったりして、最後は消え入るように終わるという、いささか前途多難を思わせるところもあるのだが・・・

さて、前半は「ジュピター」。モーツァルトイヤーの昨年にほとんど演奏せずに、今年度に入ってから4月、5月とたてつづけにモーツァルトを演奏するところに、京都人らしいへそ曲がり具合が見てとれる。ところが、演奏はいたってストレートなもの。繰り返しの多い古典派の単純な曲をそのまま演奏するというのはいかがなものかと思うが、相変わらず大友直人の指揮する古典の曲は面白くない。

一方、R.シュトラウスと大友さんの相性が、意外といいようである。昨年演奏した「英雄の生涯」は50周年記念として定期会員にCDが配られたが、なかなかの好演であった。その前年の「ドン・キホーテ」も含めて、聴き応えのある演奏が続いていた。今日も、少なくともモーツァルトのように退屈することはなく、面白く聴くことができた。それは、R.シュトラウスの持つ毒というかエグさが大友さんによって中和されるからではないだろうか。今日も冷静に聴くと、和声や調性感が現代音楽に通じるかなり斬新なところもある音楽であるが、実にサクサクッと音楽が滑っていく。ただし、クライマックスでも盛り上げも今ひとつなので、爽快感がないのが残念である。

肝心なところで、見栄を切らずに、さらっと流してしまうのが、大友さんの音楽といい、500回を迎えた京響といい、物事を少しハスに構える「京都らしさ」というものかもしれない。

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2007年4月22日 (日)

聖響×OEK「ブラームスチクルス」

金聖響さんの指揮を初めて聴いたのは、もう5年以上前だろうか。その頃は、指揮の姿の美しさもさることながら、若さに溢れたシャープな音楽を聴かせてくれていた。

今回、久しぶりに聖響さんの指揮を聴いたが、そのころの鋭敏さがなくなり、随分と丸くなったような印象を受けた。もはや、かけだしの若手でもなく、音楽が変化するのは当然のことといえ、少し残念な気もした。

特にブラームスの交響曲第1番。聖響さんが取り組んでいるピリオド奏法の特徴はあまり感じられず、強いていえば、ティンパニの硬い響きくらいであろうか。このコンビでブラームスチクルスをCDに録音して発売する予定があるようだが、あまたある先人の録音に今、あえて1枚を加える意味は何かと問うてみたい。

さて、今日、一番期待していたのが、シュロモ・ミンツの独奏によるブラームスのヴァイオリン協奏曲であった。第1楽章は、オケのピリオド奏法に合わせて、独奏者もヴィヴラートを控えめにした乾いた響きの演奏であった。ただし、どことなく乗り切れない感じで、終盤の技巧的なカデンツァが聴きどころであった。第2楽章は息の長いフレーズが多く、ヴィヴラートもかかったたっぷりとした響きで美しい演奏。終楽章は、ややオーケストラ主導で盛り上がっていき、ソロが目立たなかったのが残念。なかなか協奏曲は難しい。

岩城宏之さんに続く、井上道義音楽監督の下で新たなスタートを切ったアンサンブル金沢であるが、以前聴いた岩城さんの指揮によるブラームスが懐かしく思い出される演奏会であった。

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京フィル定期

昨日の京響定期に引き続いて京都フィルハーモニー室内合奏団の定期演奏会を聴いた(21日)。曲目は、ミヨーの「屋根の上の牝牛」、ラヴェルの「ピアノ協奏曲」、ファリャの「恋は魔術師」というたいへん意欲的なもの(指揮 手塚幸紀)。

1曲目は、ミヨーから。京都コンサートホールの小ホールの狭い舞台いっぱいにオーケストラが並ぶ様は壮観だが、音楽的には問題が残った。このような曲は、ある程度シャープに演奏しないと単なるにぎやかな音楽で終わってしまいがちである。もう一つ、何かもやっとした印象で終わってしまった。

2曲目は、大谷正和の独奏によるラヴェル。大ホールで聴くときと違って、独奏者が手の届きそうな目の前で演奏するのは新鮮であった。演奏も、室内楽的な緊密さがあって、これはこれで面白い演奏であった。

最後は、「恋は魔術師」全曲。演奏としては、もっとすっきりとまとまっていて、聴きやすかった。ただ、独奏の押見朋子さんは慣れない言葉のためか歌いにくそうであった。

ラヴェルを除いては実演で聴く機会がめったになく、このような曲を取り上げてくれる京フィルの存在は実にありがたい。後は、この京フィルの演奏に合った規模の良いホール(大阪のいずみホールのような)が京都にあればよいのにと感じた(だれかお金を出して作ってくれないものでしょうか)。

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2007年4月21日 (土)

ボッセの田園

京響の定期に待望のゲルハルト・ボッセが登場し、期待に違わぬ田園を聴かせてくれました。

ボッセは、ゲヴァントハウス管弦楽団のコンサートマスターを務めた後、日本で指揮者として活躍し、近年は大フィル、大阪センチュリー、関西フィルなど多くの楽団がこぞって客演に迎え入れるなど、その実力が評価されている人です。私はこれまで2度ほど演奏に接しましたが、京都のお隣の高槻市におられることでもあり、いつかは京響に招いてほしいと思っていましたが、ようやく実現しました。

今日は3曲が演奏されましたが、やはり後半のベートーヴェンの田園が圧倒的に素晴らしい。京響の実力とボッセの経験が見事に融合された忘れられない名演です。実演に録音も合わせれば、何十回、何百回と聴いた田園ですが、どこといった変わったところもないのに、常に新鮮で退屈なところがまったくありません。どこがどうよかったと言いようがないほど、良い演奏でした。

 これに匹敵するのは、実演では朝比奈指揮の大フィル、録音ではベームのウィーンフィルが思い浮かぶくらいです。いずれも高齢の指揮者というのが共通してますが、この曲は、ベテラン指揮者との相性が良いようです。

 できることなら、ボッセ氏には、朝比奈さんを超えるくらいのお歳まで現役で頑張っていただいて、京響にも客演してもらいたいものです。

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2007年4月15日 (日)

京響と京都市ジュニアオケ

京都洛東ライオンズクラブの結成35周年記念コンサートに行ってきました。前半は、京都市ジュニアオーケストラによるチャイコフスキーの白鳥の湖、後半は京都市交響楽団による同じくチャイコフスキーの交響曲第4番が演奏されました。指揮は、共に山下一史

こうやって、2つのオケを並べて聴くというのも、めったにない経験で面白いものです。もちろん、上手さという点では、はっきりとした違いがあります。とはいっても音量的には見劣りはしませんし、後は、ジュニアオケの木管同士のアンサンブルとか、管楽器の難しいソロなどが決まれば、かなり聴き応えのあるオケになるのではないでしょうか。

さて、音楽的にどちらが良かったかというと、これは好みの問題もあるでしょうが、ジュニアオケの方に軍配を上げたい。京響の方が音程も決まっているし、安定しているのだが、音楽としては平板で退屈でした。何よりチャイコフスキーらしさがまったく感じられない。それに引き換え、ジュニアオケは、バレエ音楽という性格もあるが、1曲1曲の性格がきちんと出ていただけでなく、山場に向かっての盛り上げ方においても優れている。何より演奏に熱気が感じられるのがいい。これもプロ野球よりも高校野球の方が好きという人がいるのと同じようなものでしょうか。

両オケの間には、京響の伴奏で源田俊一郎編による「ふるさとの四季」が山科区民合唱団ほかの合唱で演奏されました。これは、春の小川、茶摘、われは海の子といった日本の四季を歌ったおなじみの楽曲にオーケストラの伴奏が付いたものです。これがまた、オーケストラの伴奏が1曲ごとに変化が付いていて、とても楽しい。聞きなれた曲が何倍も素敵に聞こえる編曲でした。まさに、日ごろ食べている「おばんざい」も料理屋できれいなお皿に盛られていると、おいしく感じるというような感じです。

合唱は、この日のために編成された合唱団ですが、臨時の合唱団にありがちな粗さが少なく、なかなか見事なものでした。共演のひまわり児童合唱団も「おばんざい」に加えられた隠し味のようによいアクセントになっていました。

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2007年3月24日 (土)

庄司紗矢香と小菅優

今、日本人の若手で最も注目を集めている演奏家がヴァイオリンの庄司紗矢香と小菅優の2人でしょう。この2人のデュオとなれば聴かないわけにはいきません。ただ、会場がオペラ向きの兵庫県立芸術文化センター大ホールということで広すぎないか心配しましたが、結果的には十分問題ない音響でした。

さて、演奏の方も旬の2人だけあり、期待を裏切らないできでした。

最初はベートーヴェンの「スプリング・ソナタ」です。室内楽といえば、各奏者の対話にも例えられるもので、議論や場合によってはつかみ合いのような強烈な演奏もありますが、今日の2人は若いだけに女子校生の会話のようです。お互いの会話によって、会話の内容が影響されるわけではなく、2人で思い思いの話をしているが、それでいて2人の空間というか親密な雰囲気を形成する、そんな感じの演奏です。春らしくほんわかとした感じの演奏で、それでいて眠気を誘うわけでもなく、春の陽だまりに身をおくような充実感に包まれる演奏でした。

2曲目は小菅さんによる同じくベートーヴェンの「熱情ソナタ」。最近、小菅さんがあちこちで弾いておられるだけに表現は練られて、すべてのフレーズが意味を持つかのような密度の高い演奏です。ホールの大きさをものともしない、というか逆にホールが大きいからこそ、最大限のダイナミクスを使い、それでいてうるさすぎないという条件で成立するスケールの大きな演奏でした。

後半1曲目は、庄司さんによるバッハの「シャコンヌ」。無伴奏ヴァイオリン曲の最高峰とも称される曲だが、その高みに至るには庄司さんでは若すぎるのか、それとも会場がよくなかったか。表現、音色とも少し堅苦しく窮屈な感じがしました。下手な細工が通用する曲ではないですが、あまり庄司さんの魅力が伝わってこない気がしました。

最後はリヒャルトシュトラウスの「ヴァイオリン・ソナタ」。こちらは、庄司さんがリードし、それに小菅さんが絶妙に合わせたような演奏。いささか退屈なところがないでもないが、そこはRシュトラウスの曲のせいかもしれない。全体的にはメリハリも効いて、十分に満足できる出来でした。

この2人、それぞれヨーロッパで活躍しており、なかなか出会う機会がないかもしれないですが、これを契機に1年に1度でもデュオを聴かしてもらいたいものです。

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2007年3月18日 (日)

奥村愛&上松美香&近藤嘉宏

現在活躍しているJクラシックを代表する3人、ヴァイオリンの奥村愛、アルパの上松美香、ピアノの近藤嘉宏の出演するコンサートを聴きました。このお三方、テレビやCDでもなじみのある方々ですが、一人ずつではなかなか聴きに行こうとは思わないのですが、3人が一同に揃うというお値打ち感があって足を向けてみました。

3人の中では、圧倒的にアルパの上松さんが良かった。全6曲のうち3曲は、自作です。いずれも、なじみやすいメロディーを展開していく様はよくあるヒーリング音楽っぽさがありますが、アルパのクラシックハープ的なイメージ(華麗なグリッサンドなど)を生かしたとても魅力的な曲です。一方、南米の作曲家による2曲は、独特のリズムによる力強い曲で、キューバでは9割が男性が弾くというこの楽器のもう一つの側面がよく分かりました。それにしても上松さんのリズム感が優れているのがよく分かります。曲の合間のトークもサービス精神にあふれており、満点の出来です。上松さんのコンサートならば、もう一度でも行ってみたい。

それに比べると後の2人は、いささか出来が悪かった。必ずしもクラシック音楽向きのホールではないかもしれないが、それならそれでポピュラーな曲を入れてもよかったが、正統なクラシックの曲で勝負しただけに、過去に聴いた名演と比べるとものたりなさが残りました。

近藤さんは、最初にドビュッシーの「月の光」とラベルの「水の戯れ」の2曲。いずれも透明感のある明るい音色で楽しませてくれたが、フランス音楽っぽさはない。きっとモーツァルトでもショパンでも同じようではないかと思わせられる。メインは、ベートーヴェンの「月光ソナタ」。有名曲だけに他の人と比較されるとつらいだろうが、それにしてもタッチが粗くて丁寧さが感じられない。

一方、奥村さんは当初チラシに書かれていたブラームスの「ソナタ第3番」ではなく、クライスラーの小品やツィゴイネルワイゼンなどの有名曲が演奏された。こちらは、弾き方は丁寧なものの、ジプシーっぽさのまったくないツィゴイネルなど、淡白というか単調というか、まあ地味な演奏だった。

まあ、Jクラシックといって持ち上げられても、地方のホールも回らなければならないし、いつも同じような名曲ばかり求められるだろうし、それはそれで大変だろうが、もう少しクラシックファンをうならせるような演奏をしてもらわなければ、「Jクラシックはクラシック音楽ではない」といわれそうである。

ところで、3人以上に一番良かったのは、ルミエールホール(大阪の門真市にある)のお客さん。ステージから、「この土地のおいしいものは何ですか」って聞かれて、「レンコン!」なんて感じで会話がなりたっていたのは、びっくりした。ここら辺は、シンフォニーホールなどのように気取った感じがなく、素敵なお客さんだと思いました。

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2007年3月15日 (木)

京響第498回定期

前半がベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。後半がラフマニノフの交響曲第2番というあまり統一性の感じられないプログラムだが、強いて言えば、それぞれ長大な曲をどのように聴かすかというのがミソだというのが共通点だろうか。

ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は、技巧的にはそれほど難曲ではないのだろうが、繰り返しが多く、工夫がなければ音階を上がったり下がったりしているだけになってしまうが、さすがにベテランのレジス・パスキエの独奏であり、最後まで飽きさせない(少し退屈なところもあるが・・)。音楽院で教鞭をとっている先生だけあり、丁寧な弾きかたではあるが、句読点がはっきりしており、自然と曲に陰影ができるのが素晴らしい。第2楽章のしみじみとした雰囲気も最高である。普段は、独奏者に寄り添わない大友直人と京響も珍しく今日は、独奏者の句読点をなぞって音楽的な一体感を感じることができた。

一方、後半のラフマニノフはベートーヴェンと比べるとはるかにダイナミックで色彩豊かな音楽である。あんまりかっちりとした構成感は感じられないが、こういう雰囲気で聴かせる曲は大友さんの得意とするところである。ハリウッドの映画音楽のようなサウンドを聴くのもオーケストラを聴く醍醐味の一つであるのは間違いない。ただ、パスキエ氏が歩んできた経験がベートーヴェンに凝縮されているのに対し、京響の50年の歩みの成果はどこにあったのだろうかと考えさせられる演奏ではあった。

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2007年3月11日 (日)

プッチーニ「ボエーム」

最も素晴らしいオペラは何かという質問には、モーツァルト、ヴェルディ、ワーグナーなどの数ある作品からいろいろな選択肢があるでしょう。でも、今の気分では、断然、プッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」です。今日は、ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団定期演奏会としてコンサート形式で上演されたボエームを堪能しました。

コンサート形式というとオペラから舞台装置や衣装、演技などを取り去って純粋に歌と管弦楽とだけで聴かせるオペラです。歌劇から「劇」の要素を取り去ったらそれはオペラではないのではないかという疑問もありますが、そこはプッチーニの名作、劇性という点においてはいささかの疑問もありません。歌劇は、「歌+劇」ではなく、「歌=劇」なのだということが良く分かります。例えば、一幕の冒頭で若者たちが暖炉にくべる薪がないので、書き上げた原稿を暖炉にくべて一時の暖をとります。オペラとしては、主人公のミミが出てくるまでのほんの些細なシーンですが、舞台を取り去って音楽だけに耳をすませば、ちゃんと火が燃え上がって、そして消えていく場面がオーケストラで表現されています。こうやって聴くと舞台がないことは何ら問題ではありません。

さて、今日遅ればせながら気づいたことのその2が並河寿美さんが素晴らしいということ。元々関西での登場の機会も多い方ですが、これまでそれほど強く印象に残る舞台はありませんでした。その実力を認識したのは、昨年末の大フィルの第九公演。そして再び、今日の演奏で強い感銘を受けました。

プッチーニの音楽は、一幕で現れたメロディーが三幕でも終幕でも繰り返し現れてきます。しかし、登場人物の関係にはその間に大きな動きがあります。ミミで言えば、一幕は初めてロドルフォと知り合う恥じらいをもった少女としての表情、三幕ではロドルフォへの疑念から、その本心を知って別れを選ぶ大人の女性へ、そして終幕ではムゼッタなど周りの人へも気遣いながら最初に会ったときの少女の表情をも併せ持つ聖母のような存在へと変身していきます。それを説得力をもって歌で示せるだけの経験と技量が今の並河さんには備わっています。演奏会形式でありながらも、わずかな手の動きや表情で劇を表現していく繊細さといい、今日の出演者では群を抜いた素晴らしさです。今日の演奏だけを見ると、「ボエーム」というのは、結局は甘さが抜けない男たちの中にあって、ミミが成長していく物語なんだなという気すらします。

今日はミミのいじらしさに涙と鼻水が止まりませんでした。少し恥ずかしいですが、花粉症の季節は他の人にまぎれるのでよしとしましょう。

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2007年2月25日 (日)

大人のための音楽の時間

びわ湖ホールで開かれた小林道夫教授の大人のための音楽の時間を聴きに行った。私は初めて参加したが、人気のあるシリーズのようで、客席はほぼ満員である。

音楽の時間と題していても、中身はそれほど堅苦しくはない。音楽の合間に解説が入るという、まあ解説付きのコンサートといったところか。それでも普段、室内楽はあまり聴かないので解説があるのは非常にありがたい。

曲目もピアノ四重奏、フルート四重奏、オーボエ四重奏、弦楽トリオなど編成が変わるので聞き飽きることがない。なかなか絶妙のプログラムだが、どの楽器でも、その楽器の魅力を活かしつつ、かつ、モーツァルトらしさのある曲を生み出した作曲者の力量にも感嘆させられる。

その中でも聴きものは最後に演奏されたグラスハーモニカのためのアダージョとロンドK.617。グラスハーモニカとは、ワイングラスのふちを濡れた指でこすったときに音が出る原理を生かした楽器とのこと。まさに人間は、音の出るものなら何でも楽器にしてしまうわけですねえ。今日は、その現物ではなく、チェレスタで代用されました。モーツァルト最晩年の純度の高い音楽です。チェレスタは、オーケストラの中でもたまに使われますが、今日の編成で聴くと意外と大きな音がします。まるで玄関チャイム?のよう。いつかは、本当のグラスハーモニカでこの曲を聴いてみたいものです。

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2007年2月18日 (日)

井上道義のシベリウス

井上道義指揮の京響定期演奏会がオール・シベリウスプログラムで開かれた。今年度は、京響創立50周年ということで様々な注目すべきプログラムが組まれたが、チケットの売れ行きという点では、最も早くに券が売り切れたのはこの公演ではないだろうか。こういうことを分析すれば今後のプログラミングの参考になるのではないだろうか。よい指揮者、よいソリスト、明確な選曲、そして休日の昼間の開催というのがよいようだ。

さて、演奏自体は、シベリウスの4曲を井上が見事に振り分けたという感じがする。1曲目の「カレリア」組曲は、ゆったりとしたテンポでじわじわと盛り上がっていく間奏曲に始まり、叙情的な第2曲、陽気な第3曲とある意味理想的な演奏が展開された。

それで、次の交響曲第7番はどうなったかというと、かなり前衛的な感じに変貌するわけである。この曲は、演奏時間20分程度の1楽章からなる、ちょっとした佳品という趣の曲であるが、不協和音を際立たせた現代音楽のような演奏である。シベリウスが晩年にたどりついた極致をまざまざと示してくれる、ある意味おそろしい演奏である。

後半第1曲目は、諏訪内晶子を迎えたヴァイオリン協奏曲。あいかわらず、すらっとした美しい方だが、演奏は少し角が取れた感じがする。以前の印象は、研ぎ澄まされた硬質な音色のイメージがあったが、今日はずいぶん穏やかで余裕を持って弾いておられた。もっとも演奏としては、シベリウスにしては微温的で、冬なのにまったく寒くならない今年の冬のようなどこかもどかしい演奏である。アンコールに演奏されたバッハのラルゴが絶品だったことからすると、現在の諏訪内さんが近現代よりもバッハのようなバロック・古典派に向かっている傾向を反映しているのかもしれない。オーケストラは、独奏を邪魔しない中立的なもの。

最後は、金管を力強く鳴らしたフィンランディア。重々しさよりも派手さを強調した演奏で、交響曲第7番、ヴァイオリン協奏曲とどちらか難解な曲が続いたので、明るく盛り上げて終わろうという井上道義の意図的なものだと思われる。なかなか観客の心理を理解したしたたかな作戦である。

この演奏会は、NHK-FMで3月25日に放送予定とのこと。私の感想は以上のとおりだが、もしお暇があればFMをお聞きになって、ご自身の感想と比べていただければと思う。

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2007年2月 4日 (日)

ABCフレッシュコンサート

クラシックの世界に毎年、どれくらいの数の新人がデビューするんだろう。大手のレコード会社とタイアップした人については、雑誌や何かで大きく取り上げられるが、それと同じくらいのレベルにありながら、注目されない新人も多いことと思う。そのような新人に光を当て続けていうABCフレッシュコンサートの取組みは貴重なものだと思う。ただ、歴代の出演者を見るとヴァイオリンは有名な人が多いが、ピアノ部門はやや奮わない感じがする。

今回の出演者は、ヴァイオリンの大岡仁さんとピアノの市川雅己さんの2人。

ヴァイオリンの大岡さんが取り上げたのは、シベリウスのヴァイオリン協奏曲。この難曲を豊かな音と確かな技巧で弾ききったのは頼もしい限りだが、第一線のソリストの演奏を数多く聴いてきた曲目だけに、弾ききったというだけでは物足りない。もっと、オーケストラとの共演の経験を積んでこの人なりの持ち味が出てくれば、また聴いてみたい。

一方、ピアノの市川さんは、ロンドンやパリの留学経験もあり、ソリストとして一定の段階に達していると思われる。選曲も、プロコフィエフの第1番という珍しく、技巧にも溢れて若手が取り上げるには向いていると思われる。パンフレットに尊敬するピアニストにアルゲリッチの名を挙げている市川さんだが、勢いやリズムの躍動感、そしてみなぎるパッションなどアルゲリッチを彷彿とさせるとまで言うと言い過ぎかもしれないが、コンサートとして楽しめた。

それに対して、伴奏の現田茂夫指揮のセンチュリー響は、もうすこし何とかしてほしい。シベリウスをマーラーのように金管バリバリで演奏するのは論外としても、もう少しソリストにきちんと合わせてつけてほしいものだ。

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2007年1月28日 (日)

ジュリアーノ・カルミニョーラ

バロックヴァイオリンのジュリアーニョ・カルミニョーラとフォルテピアノの矢野泰世のリサイタルを聴く。曲目は、モーツァルトのヴァイオリンソナタを2曲(36番、28番)とベートーヴェンのヴァイオリンソナタを2曲(4番、5番)である。

モーツァルトとベートーヴェンという古典の選曲で、ある意味、地味なプログラムとも言える。それとバロックな楽器という条件からは想像を超えた激しく、躍動感のある演奏である。古典の曲というのは、同じようなフレーズが度々現れるが、カルミニョーラは再現されるところでも同じようには弾かない。というか繰り返される度により荒々しく奔放になっていく感じである。バロックの弓を使っているために、モダン弓よりもアクセントは付けにくいだろうが、それを力技で(いや、もちろん高い技巧があるのだが)変化を付けにいっているように思えた。

とはいえ雑な感じはまったくしない。控えめに、タンタンといった感じで鳴らされるフォルテピアノと良く調和している。荒れ玉を放るピッチャーをリードする堅実なキャッチャーのようである。モダンヴァイオリンとピアノの組み合わせだと本当に対立しているようだが、このクラシックな楽器同士は相性が良い。ホール(兵庫県立芸術文化センター小ホール)も小ぶりの空間で、このようなリサイタルにはうってつけである。

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2007年1月27日 (土)

ツウになれる!クラシック入門

「ツウになれる!クラシック入門」という本を読む。ツウになると言っても夕鶴を歌うわけではない(当たり前だ)。様々なテーマで音楽に親しもうという本であるが、200CDというシリーズなので、CD等のメディアを前提としている部分が多い。

さて、「ツウになる」というのと「入門」というのは、なかなか両立が難しい。入門者がいきなりツウぶるのは恥ずかしいものだし、クラシックなどという世界のツウというのは、「私、50年も聴き続けてます」というような人がいる世界で、なかなかツウと呼べるには時間がかかるであろう。

この本も入門書的部分とマニアックな部分が混在している。実際に、これからクラシックを聴きはじめようかという方が読めば少し面食らう部分もあるかもしれないが、私としては面白く読ませていただいた。入門書といいながら、結局はライター個人のクラシックの楽しみ方が紹介されているものであり、結局はクラシックの世界への入り方も、趣味の極め方も人それぞれであって、入門書やハウツー本で教えられてそのとおりに入るものではないのだろう。とはいえ、この世界に足を踏み入れてくださる人が一人でも多い方が、底辺拡大のために良いことは確かである。

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2007年1月21日 (日)

マーラー音詩「巨人」

久しぶりに市民オーケストラを聴いた。京都フィロムジカ管弦楽団という比較的新しい団体ではあるが、実に意欲的なプログラミングで注目すべきオーケストラである(京響をはじめ関西のプロのオーケストラも見習ってほしい)。

今回取り上げたのが、マーラーの交響曲第1番「巨人」のハンブルク初演稿である。いわゆる「花の章」が第2楽章に入り、5楽章形式になっている。会場で配られたパンフレットには指揮者の金子建志氏の詳しい解説があり、どういう理由でマーラーが改稿し、現在聴かれる交響曲第1番になったかという点は、推測とは言え、実際に演奏したうえでの感想に基づいており興味深い。

さて、個人的には版の違いというのはどうでもいいというか、良く分からないというのが正直なところである。しかし、聴いた限りでは、一般に耳にする「巨人」とは幾分趣が異なっている。巨人のイメージとしては、終楽章に象徴されるような華麗で突き抜けるような爽快なオーケストレーションであるが、今日の演奏はかなりウェットな感じがする。全体的に翳りのある楽章が多く、後の交響曲第9番の世界をも思わせるところが多い。花の章もトランペットの活躍を除けば比較的穏やかな楽章であるし、これまで聴いた巨人よりも統一感は感じられるが、反面これまで抱いていた巨人らしさのイメージとは遠い。マーラーの割りに退屈だと言ったら失礼だろうか。

一方、前半に演奏された伊福部昭の交響譚詩は見事な演奏。ゴジラを思わせる伊福部節が満載の前半部、叙情的ながらも野性さを失わない後半部も美しい。なぜだか分からないが昔なつかしい感じにさせてくれるのが伊福部昭の素晴らしいところである。

このように意欲的すぎるプログラミングのためか、会場はいささか寂しい入りであった。これを気にして小さな会場に移したり、小さな編成の曲にするなどせず、これからもコンサートホールでだれにもまねのできない演奏を披露してほしい。

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2007年1月14日 (日)

平成19年度京響プログラム発表

平成19年度の京都市交響楽団の自主公演のプログラムが発表された。

http://www.city.kyoto.jp/bunshi/symphony/kohos/20070105-01.pdf

予想されたこととはいえ、はっきり言って少し寂しいプログラムである。昨年は創立50周年ということで客演指揮者やソリストにも金をかけたのだが、その反動か、ここ数年でも最も予算のかかっていないプログラムである。外国からの指揮者はデリック・イノウエ1人だけであり、ソリストもデュメイやイッサーリスなど最近呼んでいた大物もなしである。これでは、50周年を機に一層の飛躍を期待することはできまい。

さて、顔なじみの指揮者とソリストの中で目を引くのが、4月定期のゲルハルト・ボッセと10月定期の下野竜也である。お隣の高槻市在住のボッセ氏と大阪フィルで朝比奈隆の薫陶を受けた下野氏とも関西にゆかりのある指揮者であり、もう少し早く京響に登場しても良かった人であり、大いに歓迎したい。できれば下野さんは、ブルックナーを聴きたかったところである。後は、同じく関西に縁の深い金聖響と西本智実の京響定期登場を待ちたい。

曲目としても、目新しいものが少ない。しいていえば、12月定期のフランス音楽特集が興味深い。プーランクの雌鹿やドビュッシーの遊戯は楽しみ。ニューイヤーコンサートの京響奏者によるモーツァルトの協奏交響曲も期待が持てる曲目である。

大友直人は、常任指揮者7年目を迎えることとなった。多くの曲を大友氏の指揮で聴いており、エルガーの交響曲1番、2番など既に京響で取り上げた曲も多くなってきた。いい加減、指揮者交代の時期ではないだろうか。前指揮者のムントも、前々指揮者の井上道義も共に3月定期でマーラーを振って、くびになっている。大友氏が来年の3月でマーラーの9番を取り上げるのは指揮者交代の前兆であろうか。ぜひにもそうあってほしいところである。

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2006年12月31日 (日)

METライブビューイング「魔笛」

ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で行われたオペラの公演を録画して、その日のうちに日本の劇場で上演するという画期的な試み「METライブビューイング」を見てきたが、期待したほどではなかったというのが正直なところである。

原因は明らかで、やはり録画は録画であり、生の魅力には絶対にかなわないということを再確認した次第である。4,000円という入場料は、メトロポリタンオペラが日本に来たときの入場料の5~6万と比べるとはるかに安いが、むしろ映画の1,800円と比べると高いと感じられた。4,000円出すのであれば、DVDを買って、家で見たほうがマシではないだろうか。

出かけるまでは、家でビデオを見るのと違い、決まった時間に集まり、他の聴衆と共に体験するのであり、むしろ観劇に近いのではないかというように思っていた。しかし、決定的な違いは、同時性がないということである。舞台でまさに今、歌われ、演じられているというのが、コンサートやオペラや演劇や歌舞伎や、そういったものの醍醐味である。いくら、劇場に足を運ぼうが、事件はそこで起きてはいないのである。

それを一番強く感じたのは、魔笛の聴かせどころの一つである「夜の女王のアリア」である。作品の中に前半と後半に1度ずつアリアがあり、ソプラノの超絶技巧を要する難曲である。一度でも魔笛をみたことのある人は、その場面が来ると、超難度のコロラトゥーラが決まるかはらはらどきどきし、成功すれば惜しみない拍手を与え、失敗しても健闘すれば暖かい拍手が送られる曲である。しかし、今日は、このアリアが歌われても会場から拍手一つ起こらなかったのである。それはそうである。いくら、歌手の検討に拍手を与えても、上演は海の向こうで12時間も前に終わっているのである。

あとは、細かいことを言えば、カメラワークが切り替わりすぎるのも、オペラを見ているよりも映画を見ている感覚に近いものであった。音響については、神経が払われていたのは理解するが、すべてがはっきりと聴こえすぎていて、録音的な印象が強かった。更にいえば、英語で歌われる魔笛を初めて聞いたのも、違和感が残ったところである。

上演は、ミュージカル「ライオンキング」の演出家ジュリー・テイモアーの演出による90分ほどの短縮版である。とはいえ、ほとんどカットの感じはないし、ライオンキングの世界を思わせる楽しい演出も冴えていた。それでも、簡素な演出でもよいから、生の舞台を見たいと思った。

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2006年12月29日 (金)

井上道義・大フィル「第九」

私が生のコンサートで初めて聴いた第九は、井上道義指揮の京響だった。当時は、京都コンサートホールができる前で、京都会館での演奏だったが、初めての第九の印象は強烈であった。それ以来、毎年第九を聴いているが、最初の感動を超える演奏には出会ったことがない。

ただ、今日の演奏会は、ふとそのときのことを思い出させてくれるような演奏であった。会場は、久しぶりのフェスティバルホール。今ではシンフォニーホールや京都コンサートホールをはじめ、音響の優れたホールがたくさんできたおかげでフェスティバルに行く機会はぐっと減ったが、どこか懐かしい響きがする。なんとなく、1950年代、60年代の録音を聞いているような感じに近い。そういえば、井上の指揮する第九も、その当時の演奏を思わせる。今はやりのテンポが速かったり、刺激的だったりするような演奏ではなく、たっぷりとした響きで聴かせてくれる。これでこそ第九である。

演奏も、シンフォニーホールで聴く大フィルと違い、昔の朝比奈さんの大フィルに近い。ホルンが不安定ななのは相変わらずとして、爆発力というか、ぐいぐいと音楽を進めていく推進力は、大フィルらしさを感じる。声楽陣もなかなかの好演。バリトンのロバート・ハニーサッカーは良く響く声で合唱の導入を見事に果たしたし、ソプラノの並河寿美も丁寧な歌い方で好感が持てる。合唱団も歌詞が良く聞こえるきれいな演奏であった。

一年の締めのコンサートが第九となったが、いろいろとあった一年も素晴らしい演奏で締めくくれると前向きに感じられる。また、来年もいい演奏に出会いたいものである。

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2006年12月17日 (日)

こんにゃく座のフィガロ

日本語オペラに取り組んでいるオペラシアターこんにゃく座のフィガロの結婚-モーツァルト・エキゾチカ-を見る(17日・長岡京記念文化会館)

今年はモーツァルト生誕250年ということでテレビ番組などでも頻繁にモーツァルトが取り上げられていたが、私自身は意外とモーツァルトの作品に触れていない気がする。その中で、このこんにゃく座が取り上げるフィガロについては、とても楽しみにしていた。

というのも、以前見たモーツァルトの魔笛を題材にした「魔法の笛」がとても素晴らしい上演だったからである。普通のオペラの日本語上演とは違い、言葉が明瞭で、訳も素晴らしく、大人から子どもまで楽しめる作品であった。

さて、今回のフィガロでは、すべてがプラスに働いた魔笛とは違い、日本語オペラの難しさを浮き彫りにした感じがある。モーツァルトの作品に共通する点でもあるが、このフィガロは重唱が多く、また、それがストーリーの核となっているところがある。さすがにこの重唱までは、日本語で明瞭に聞き取らせるのは無理があった。ソロで歌われるアリアはさすがにこの団体の良さが出ていただけにかえって残念である。

次にストーリーであるが、子どもでも楽しめる作品が多いこんにゃく座にあっても、この作品は初めてみる子どもには少し理解しがたいところがあるのではないか。浮気と嫉妬を横糸に愛と赦しを説くこのオペラの思想はともかく、登場人物が多く、筋が込み合っているので、セリフや動きでかなり分かりやすくなったとはいえ、まだ消化しきれないところが残った印象である。

と少し辛口であるが、いいところはたくさんあった。ピアノ、バイオリン、オーボエ、ファゴット、クラリネット、ティンパニというシンプルな楽器編成ながら、モーツァルトの魅力を伝える巧みな編曲や、貴族と庶民の対立を西洋と東洋(あるいは帝国主義と植民地)に置き換える演出など、なるほどと思わせるところは多い。

でも、こんにゃく座の命は日本語ではないかと思う。そうであれば、言葉を伝える工夫がもう一つあっても良かったのではないかと思う。

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2006年12月 8日 (金)

愉快、痛快、コバケンの幻想

コバケンこと小林研一郎さんが久々の京響定期に登場です。50周年の最後を飾るにふさわしい、また、今年1年で最高に思い出に残る演奏会でした。

前半は、先ごろミュンヘン国際コンクールに第2位入賞を果たした河村尚子を独奏に迎えてのモーツァルトのピアノ協奏曲第20番です。独奏者を決めたときには、当然コンクールの結果など分からなかったはずですが、結果的にはグッドタイミングの演奏会になりました。京響の担当者の慧眼に恐れ入ります。

独奏は若さの感じられる部分はあるものの、ときにハッとさせられる部分があります。特に短調のデモーニッシュな部分における左手の響かせ方などにどきっとさせられます。おそらく当時としては異例の暗さを持ったピアノ協奏曲ですから、初めて聴いたモーツァルトの時代の聴衆はびっくりしたと思うのですが、その驚きが伝わってくるように思います。伴奏も後半の幻想と比べると大人しめでありながら、コバケン独特の歌い回しが感じられる魅力的な演奏でした。

さて、後半は、ベルリオーズの幻想交響曲です。ベートーベンの第九交響曲から数年後の作品とは思えないほど斬新な、というのは良く言われることですが、それ以降の作品も聴き慣れている現代の我々からは実感しにくいところもあります。しかしながら、その響きの新しさ、斬新さ、奇抜さを現代に極力よみがえらせようというのが今日の演奏の試みに感じられます。

第1楽章から弦楽器の強いアクセントや、管楽器の特異なうたい方など、ベルリオーズの工夫がこれでもかと強調して演奏されます。作曲もするコバケン氏だからこそ、ベルリオーズの楽器法の素晴らしさを理解し、それを最大限に再現しようという思いが伝わってきます。かといって、響きの奇抜さだけに終わりません。第1楽章など恋におちたときに感じられる、心の奥がざわめく感じ、胸がどきどきして破裂しそうな瞬間、恋人を思うせつない感じ等が手に取るように伝わってくる演奏です。

第2楽章も秀逸です。ワルツでありながら、感情が高ぶったり、静まったり、テンポが速く感じられたり、遅くなったりと気分の浮き沈みが感じられるような動きのある楽章です。

第3楽章は、舞台上のイングリッシュホルンと、別働隊のオーボエの掛け合いで始まる印象的な楽章です。オーボエは通常は、舞台のそでで演奏し、扉を細く開けて音だけを客席に流すことが多いですが、今回は3階席の後ろにオーボエを配置していました。エレベーターのない3階席まで車いすのシャレールさんをあげるのはたいへんだったでしょうが、それだけの演奏効果はあったと思います。

第4楽章は最もにぎやかな楽章ですが、反面、コバケンの要求するパワーに京響のブラス陣が付いていけない感じもあります。アメリカかロシアのオーケストラをコバケンが指揮したら、どこまで盛り上げてくれるのだろうと想像が膨らんでしまいます。

第5楽章は、悪魔の饗宴。弦楽器の特殊奏法などがありますが、少々音がかすれようが思い切って演奏させるので、ベルリオーズが何とかしてみんなが聴いたことがない響きを取り入れようと苦心した様が感じられました。

演奏後は、終楽章の最後40秒をアンコールで演奏。さすがに、ダニーボーイではなくて良かった、良かった。

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2006年11月18日 (土)

アーノンクールのメサイア

今年のクラシック音楽界における大きな話題の一つが、日本での演奏が長らく待たれていたニコラウス・アーノンクールの来日であることは間違いないであろう。

私にとっても待ち望んだ演奏会である。「メサイア」というわが国では必ずしもメジャーとはいえない曲目と、超一流オーケストラ並みの入場料のせいか、会場は満席にはならなかったが、アーノンクールを待ちわびたであろう音楽好きが詰め掛けたであろうことは、会場の雰囲気からもひしひしと感じられた。

さて、演奏自体はというと、さすがにウィーン・コンツェントゥス・ムジクスとシェーンベルク合唱団のうまさは際立っている。まさに声のように奏でるオーケストラと、楽器のように歌う合唱団である。終曲のアーメンコーラスなど、合唱のバスからソプラノまで順次上がっていき、続いてヴァイオリンに受け渡されるところなど、ソプラノの上にもう一つ合唱パートがあるかのように自然につながっていく。この渾然一体となったハーモニーは、モダンオーケストラとアマチュア合唱団の作り出す響きとはまったく違う音楽かのようである。

では、肝心のアーノンクールは何をしていたのか。休憩までの第1部は、ゆったり目のテンポでひたすら穏やかな演奏である。しかしながら非常に重い雰囲気がつきまとっている。イエスの誕生を祝う前半部にもかかわらず、受難曲のような死の影が感じられる演奏である。第2部、第3部は少し劇的な性格を増してきたが、前半のような張り詰めた感じは少し薄れてしまったように感じられた。さすがにアーノンクールの音楽を伝えるには、京都コンサートホールは少し箱が大きいか、という気もする。1曲1曲、フレーズごとに込められていたであろうニュアンスが感じられず、全体の大きな流れの中に埋没したような感じである。

とても素晴らしい演奏を聴いたのは確かであるが、期待したほどではなかったというのが正直な感想か・・・

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2006年10月29日 (日)

びわ湖ホールプロデュースオペラ「海賊」

びわ湖ホールの開館以来、毎年続いているヴェルディの日本初演となるオペラを自主製作するという試みも今回の9作目の「海賊」でひとまず終わりを迎えることとなった。

ただでもオペラの公演の多くない関西のこと、このようなオペラを取り上げるびわ湖ホールの試みは貴重なものであった。私もこのシリーズを連続して聴いて、ヴェルディの音楽語法というか、音楽の作り方、楽器の使い方、場面の盛り上げ方といった作曲家の癖のようなものがだいぶんと分かってきたような気がする。

反面、指揮者も演出家も同じで、歌手も常連メンバー、音楽も代表作ほどの個性がないとなれば、9年もやればマンネリ気味であったのは確かなところで、若杉さんの新国立劇場への転身を機に企画が一層されるのは楽しみなところである。

さて、今回聴いた公演(2公演のうち2日目)では、海賊の首領を演じた福井敬さんが抜群の出来であった。これまでからもこのホールの常連であるが、数多く登場したテノールのうち総合的にみて最も点数が高いのが福井さんであることは間違いないであろう。ヴェルディの音楽が盛り上がっても管弦楽に消されることのない力強い声といい、英雄的な場面から敵方にとらわれた苦悩に満ちた場面までの感情の入れ方といい、申し分のない歌唱であった。

一方、女声は少し注文がつくところもある。今作はヴェルディにしては珍しく、コロラトゥーラの技法が目立つ役柄となっていたが、大岩千穂さんは低めの声はしっとりと量感があるが、高音は少し苦しそう。佐藤ひさらさんは、大岩さんよりもコロラトゥーラの切れはあるが、全体を通しては出来に波が感じられた。

全体としては、台本のまとめ方がかなり強引な感じがしており、場面のつながりが唐突な感じがするのは、ベテラン鈴木敬介さんの演出でもいかんともしがたく、話の展開としては???な感じのオペラであった。あまり取り上げられない作品には、それなりに欠点があるものだが、この「海賊」の場合は、一に台本であろうか。

ともあれ、来年度からは、もう少し名作が見られそうであるが、その来年度がR.シュトラウスの「ばらの騎士」を神奈川県民ホールとの共同制作ということである。佐渡さん率いる兵庫のホールがオペラでも頑張っていることであり、それに負けない作品を期待したい。

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2006年10月 7日 (土)

デュメイ&京響

10月7日 京都市交響楽団第493回定期演奏会

 有名な演奏家が必ずしも良い演奏をするとも限らないですし、高いチケット代を払った演奏会が感動するわけでもないというのは、また真実でしょう。

 しかし、今日のオーギュスタン・デュメイの演奏は、名前の大きさに匹敵する立派な演奏でした。

 デュメイと言えば、美音で語られるヴァイオリニストですが、今回は、音色よりも音楽をリードする積極性が目立ちました。演奏したのは、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲。それこそ私が今まで最もたくさん聴いた協奏曲ですが、ソリストの存在感の大きさでは、これまででも1,2を争うものでした。常にオケから浮かび上がる明るめの音色。やや突っ込み気味に入ってくる独奏など、デュメイが完全に主役でした。終楽章では、自由にテンポをずらし、オケが困惑気味の感もありましたが、大満足の演奏です。いっそのこと、関西フィルのようにデュメイが弾きながら指揮すればよいのに・・・

 後半は、マーラーの交響曲第1番「巨人」。これも定番曲で、以前にも大友さん指揮の京響で聴いたことがあります。そのときは、かなり単調な演奏だった記憶があるのですが、今回はなかなか聴き応えのある演奏でした。

 あいかわらず大友さんがまったく統率しないために好き勝手に演奏するので、いわゆる完成度としては低いですが、管楽器を中心に、個々の演奏が伸びやかで明るく響くので、マーラーらしい陰鬱とし分裂症的な感じのない、すがすがしい演奏です。マーラーが苦手という方にもお奨めできる演奏です。京響は創立50周年記念として、マーラー「巨人」を携えて東京、新潟、大阪、福山、福岡、佐世保と回るので、機会があればお聴きください。

 それにしても、どうせ全国ツアーの同じ曲を定期でやるならば、全国を回った後にしてくれれば、完成度が上がった演奏が聴けるのにと思うと残念です。

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2006年9月24日 (日)

堀米ゆず子ヴァイオリン・ワークス

コンサートに通っていると、CDで聴いてそれほど感銘を受けなかった音楽が実演に接してみてとても好きになったり、これまで好きでなかった演奏家がとてつもない演奏をしたりということがあるものです。今日のシューベルトの「ファンタジー ハ長調D.934」はそういった演奏でした。

これまでピアノが活躍し、ヴァイオリン的には面白くない曲だと思っていましたが、その印象を覆す好演でした。確かにピアノの方が音が多いし、ヴァイオリンが休んでいたり、伴奏をしている部分も見られますが、全体の流れというか起伏を作っているのは、まぎれもなくヴァイオリンなのです。

堀米さんのヴァイオリンは、冒頭から安定した演奏で、緊張感を持続しながら、最後のAllegro vivaceからは一転光が差し込むような明るさと力強さを持って曲が締めくくられました。まさにベートーヴェンの交響曲にも匹敵するような見事な終結です。シューベルトにこんな曲があったんやという驚きを覚えました。

前半の望月京さんの委嘱新作「パ・サージュ」も宇宙空間を思わせるこの世のものと思えない響きが印象的な佳品。全体のアクセントとしても、きらりと光る作品です。

一方、前半のドヴォルザークのヴァイオリン・ソナタは伸びやかさがなく、窮屈な感じの演奏。アンコールのツィゴイネルワイゼンは個性的ではあるものの荒削りな感じがします。この2曲は少し期待はずれ。ドヴォルザークのユモレスクも、はずむような感じがなく、つぶやくような演奏ですが、妙に耳に残る演奏でした。

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2006年9月23日 (土)

ブラスト2

ブラスト2:MIX@兵庫県立芸術文化センターを見ました。

以前のブラストが話題になっていたので見たいとは思っていたのですが、なかなか日程が合わなかったり、チケットが取れなかったりで行けませんでしたが、今回「2」で初めて見ることができました。

アメリカの南北戦争に起源を持つ伝統的なドラム&ビューグル・コーをショーアップしたものとのことですが、その「ドラム&ビューグル・コー」なるものは全然見たことがないものの、このブラスト自体はアメリカ色を強く感じさせるエンターテイメントでした。

トランペット、トロンボーン、サックスなどの楽器を演奏しながら、ダンスをし、隊列を組みというのは、音楽よりもスポーツ的な感動がありました。ただ、全体の構成を考えると、もう一工夫欲しいところです。最初は、目新しさがあるものの、前半と後半に大きな変化がなく、細かい場面のつなぎ合わせのような感じで最初の感動が次第に薄れてきます。

今回も日本人が参加しておられます。バトントワリングの世界チャンピオンという稲垣さん。バトンというと女性の競技のようなイメージがありましたが、このような素晴らしい人がおられるのは驚きです。前半の熊蜂の飛行に合わせたソロなど驚異的なテクニックです。どちらかというと、演奏者よりもパフーマンスの方に感心しました。

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2006年9月17日 (日)

ミュージック・フリー

京都コンサートでミュージック・フリーを聴く。これは,1日の間に,オーケストラ,パイプオルガン,チェロ,ピアノなどの演奏が連続して行われ,その中から自由に選んで聴くことができるという企画で,昨年から始められたものである。

最初は,大友直人指揮の京都市交響楽団による,ベートーヴェンの交響曲第7番から。とりたてて何も言うことがないという,いつもの大友氏の淡々とした演奏である。リズムの権化と称されるこの曲をこれだけ淡々と演奏できるというのも,まあ一つの才能かもしれない。

続いては,原田恵さんのパイプオルガンでバッハほか。招待客も多く,クラシック音楽になじんでおられないお客さんもいる中では,名曲を避けたプログラミングではあるが,それぞれの感じの違いも考慮されており,巧みな選曲であった。しかしながら,このホールのオルガンはいつ聴いても騒々しくて好きになれない。

3番手の上野真のピアノによるドビュッシーは所用につき,パスした。ごめんなさい。

その次は京都出身の人気チェリスト古川展生による小品集。以前にもドヴォルザークのチェロ協奏曲など聴いたことがあるが,あまり印象に残っていない。今日も,サン=サーンスの白鳥などクラシックの名曲では物足りないが,ピアソラのようにクラシックから少し離れたところの方が出来がいい。この辺では人気チェリストの面目躍如。

またまたパイプオルガンで,今度は柴田操さんによるアメリカの教会音楽とディズニーのメドレー。こちらは,古典と違ってストップ(音色)の選択に自由度が高いためか,音が整理されていた。ディズニー音楽など耳なじみのある曲をオルガンで演奏するのも,パイプオルガン入門には最適ではないか。ぜひ,まとまった形で聴いてみたい。

最後は,再び大友指揮の京響でオペラの名曲集。大友さんがオペラを指揮しているところというのは想像できないが,ここでの伴奏は良かった。ソプラノの福住恭子さん。いかにも声が出そうなふくよかな体格だが,それに違わず立派な歌であった。オーケストラの強奏にも負けずに通る声は見事。イタリア留学中とのことで,知名度もまだまだであるが,これから伸びる人だと思う。今後の活躍に注目していきたい。もう一方はテノールの小貫岩夫さんだが,福住さんの影に隠れた感じ。でも,フィギュアスケートで一躍有名になったトゥーランドットを歌い,大きな拍手を受けておられた。

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2006年9月14日 (木)

広上淳一@京響

広上淳一が指揮する京響定期を聴く(9月13日)

一昨年の定期初登場以来,3年連続しているところを見ると,楽団,指揮者ともに相思相愛の良好な関係なのであろう。それならば,いっそのこと大友直人を早くくびにして広上さんを常任指揮者に迎えたらどうかと思っているのは,私だけではないだろう。

今回は,プログラムも大友氏が得意とするイギリス音楽中心ということで,大友との違いが浮き彫りになる演奏会であった。

特に今回の聞きものは,後半のエルガー作曲エニグマ変奏曲。有名な曲ではあるが,全曲通して聴くのは初めてかもしれない。今回は,全曲の一貫性よりも,個々の曲の個性が際立つ演奏であった。したがって,出来に若干のムラが感じられる。最も有名な第9変奏「ニムロッド」は,強弱が唐突で滑らかさを欠いたが,続く第10,第11変奏あたりは見事な演奏。全体がすーっと流れていく大友の演奏とは対照的であった。

前半はオーボエ奏者宮本文昭を迎えたR.シュトラウスのオーボエ協奏曲。とても美しい曲をソリストの美しい音色で聞いたので,すっかり眠ってしまった。今年度限りで引退を表明している宮本さんのオーボエを聴く機会が,おそらく二度とないことを思うと,もったいないことをしたものである(演奏自体は良かったと思う。)。

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2006年9月 3日 (日)

京都での大植英次

土曜日に大阪フィルの京都特別演奏会を聴いた。大植英次の京都初登場とあってか,会場は当日券なしの満席であった。大フィルは,毎年京都に来るが,これだけ入ったのは久しぶりではないか。地元の京響も頑張ってほしいところである。

さて,大フィルであるが,音楽監督が朝比奈さんから大植さんに代わって,響きが変わっていくのが手に取るように分かるのが面白い。これは,大植さんが指揮台に立たない場合でも同じである。

具体的には響きが洗練されてきたように感じられる。全体的に強奏しないし,弦楽器を中心に透明感が感じられるようになってきた。管楽器は若干おとなしめに聴こえるが,無理なく溶け合っているように思う。

というのが,これまでの感想であったが,今回は幾分朝比奈時代に先祖帰りした感じもある。というのは,オーケストラを整える段階から,大植の個性を出す段階に来ているからかもしれない。しかしながら,逆に音の粗さを感じさせる場面も見られた。例えば,ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番や,後半のチャイコフスキーの交響曲第4番での最終楽章など,勢いで突っ走っていくようなところが感じられた。

私としては,これはこれで好きなところがあるが,大フィルの変身が止まったようで残念なところもある。見たところ,ご年配の奏者も多いが,これらの方が定年を迎えられ大植世代の奏者が入ってくれば,また,大フィルの変身が進むのではないかと,気長な気持ちで期待したい。

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