2008年2月 2日 (土)

アルティブヨウ公演

 アルティ・アーティスト・プロジェクト第4回ブヨウ公演を見る(2日。府民ホールアルティ)。

 望月則彦氏の振り付けによるバレエが2本上演された。

 前半は、ヴィヴァルディの四季から春と冬に振付けられた「ナニゴトもなかった日々」。バレエの稽古場での一幕をあらわしているということである。同趣向は、バランシンの「セレナーデ」など多数あるが、恋心が大きなテーマになっているのが特徴である。とはいえ、人物関係が複雑というか、整理されていないようで、筋が分かりにくい。振り付け、踊りとも消化されていない感じがした。

 後半は、シチェドリンによって弦楽と打楽器に編曲された「カルメン」を使用した、題名もそのまま「カルメン」。このシチェドリンのカルメンは、カルメンを男性に置き換えたAMPの「カーマン」でも使用されたが、今回の上演では、ストーリーもカルメンを忠実に踏襲しているので、分かりやすい。

 こちらは、カルメンを踊った福谷葉子が出色の出来。男を惑わすような妖艶さはないが、柔らかさと力強さの同居した踊りは見ものであった。ホセは、東京バレエ団の高岸直樹さん。こちらは、ホセの純情さはよく表れていたが、ダンスの切れは今ひとつ。男性陣では、スニカのクードリャ・アンドレイとエスカミリオの桑田充の方がよかった。

 作品は、群舞による盛り上がりもあり、心情表現もありで、なかなかの出来。ただ、後半になるとカルメンとホセの心情表現が多くなり、若干だれたが、全体的にはよくできていた。カルメンを単なる浮気性の女性ではなく、カルメン自身の苦悩を表現できており、この作品の読み方としても納得させられるものであった。

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2008年1月20日 (日)

BRB「美女と野獣」

 英国バーミンガム・ロイヤル・バレエ団の「美女と野獣」を見る(19日・びわ湖ホール)。

 美女と野獣というとディズニー映画やそれを踏襲した劇団四季などでのミュージカルを思い浮かべるが、その明るい世界とはかなり違う、暗くしっとりとした舞台である。

 魔法使いによって野獣に姿を変えられた王子が、ベルの愛情によって元に戻るという基本の骨格は同じものの、細かい部分の違いが多いために、振り付けとマイムだけでは伝わりにくいところが多い。お客さんがある程度、美女と野獣の話をしらなければ、何をやっているかすら分からないのではと思うほどである。

 また、話の展開も突然な感じがある。なぜ、ベルが野獣に惹かれるのかというところをとっても、ディズニーのような経過説明がなく、よく分からない。したがって、物語に引き込まれることもない。また、結婚式に招待された人の踊りなど話の展開からはずれた、いわゆるディベルティスマンが入るのもバレエらしいと言えばそうも言えるが、古臭い形式である。

 ということで新作ながら、新しい雰囲気がしないのが残念だった。デヴィッド・ビントリーの振り付けも、野獣の動きなどは工夫が見られるが斬新とまでは言えず、中途半端な感じがした。グレン・ビュアーによる音楽は、なかなかテイストとしてはよかった。

 全体としては、古典の形式を守った新作という感じだろうか。

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2007年12月22日 (土)

シルヴィ・ギエム

シルヴィ・ギエムがゲスト出演する東京バレエ団の公演を見に行く(於:びわ湖ホール)。

過去に封印した「白鳥の湖」をギエムが踊るというのがひとつのウリだが、第2幕からわずか15分だけという、ほんのちょっとだけの公演である。まさにこれを期待していたら詐欺のような公演である。とはいえ、15分でもギエムの白鳥はすごい。優美さとかはかなさといった他の白鳥で見られるようなイメージはまったくない。決然としていて、他の白鳥よりも一回りも二回りも大きく見える。キング・オブ・白鳥である。ギエムでしか出せない迫力であるが、ある意味、この人ほど白鳥が似合わない人もないのかもしれない。そういう意味では、封印したのが正解か。

第1部よりも長い休憩の後の第2部はバランシンの「テーマとヴァリエーション」。主役は吉岡美佳と高岸直樹。チャイコフスキーの組曲第3番にのって、まさにヴァリエーション(変奏曲)のように踊りが繰り広げられるのは、さすがにバランシンとうならされる作品である。しかしながら、主演の高岸さんが今ひとつ。ギエムの力強さと比較すると、安定感で大きく水をあけられた感じである。全体的には群舞がすごい。先ほどの白鳥もそうだが、東京バレエ団のコールドはなかなか感動的なものがある。

再び長い休憩の後、第3部は「Push」。ギエムとラッセル・マリファントの2人で踊るデュエットである。最初は、男性が女性を肩にかつぎあげ、女性を床に下ろしたかと思うと、暗転し、また、男性が女性をかついでいる。というのを何度か繰り返した後、2人の絶妙のコンタクトが繰り広げられる。特に筋立てがあるわけではないが、これもギエムらしさがよく出た作品である。最初、男性にかつがれ、いろいろなポーズをとらされるギエムは、まるで死体のように力が抜けていながら、マネキンのように「ぴっ」としたポーズを決める。柔軟さと強靭さを見事に兼ね備えている。男性とのコンタクトでも、モデルのように美しく、一流のアスリートのように無駄がない。ほれぼれとするのだが、実にスポーツ的である。伝統的なバレエとは美的感覚が少し逸脱している。バレエはスポーツじゃなくて芸術なんだ、と言ってしまうのは頭が固いだろうか。

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2007年12月16日 (日)

踊りに行くぜin栗東

コンテンポラリーダンスの全国巡回プロジェクトの踊りに行くぜを見に、栗東のさきらに行く。ホール前は、ろうそくが並べられていたり、中ではフラメンコの公演をやっていたりと、いろいろとにぎやかであった。さきらと言えば、指定管理制度でJR西日本系の会社が落札して物議をかもしたりもしたが、情報誌を発行したり、なかなか民間活力のいい面が出ているようである。京都コンサートホールもとっとと民間に委託しちまえ!

さて、今日は5組の公演を見た。最初は、山田知美さん。以前に大阪でも見て、印象に残っている人である。タイトルの「駄駄」のとおり、ダダをこねているかのように身体を大きくゆすったりするパフォーマンスである。単純ながら、真っ暗な中で首を左右に振り、その残像が残るシーンや、髪の毛を大きく振り回す歌舞伎の連獅子のような振りなど、印象的な場面が多い。ソロで動きも少ない中で単純になりがちであるが、もっともエネルギーを感じさせる公演だった。

次は、女性3人組みのco.co.yo。3人が音楽に合わせさまざまな動きをするが、ばらばらなようで、影響されあっていて、連動しているようで、ずれているという見ていて飽きさせないパフォーマンス。同じ女性3人組みでも、後に述べるワークショップ参加者の場合は、重なったり、繰り返されたりと単調さが出てくるが、このco.co.yoの3人は、だれを見ていいか迷うくらいに展開で多様でスピーディーである。

前半最後は、遠田誠とJOUのユニット。遠田さんは、まことクラブの部長で、この夏のびわ湖ホールで見たばかり。今日は、また違った面白さがあった。全体は、大きく3部構成。最初は、2人のデュエットであるが、2人の動きがばらばらながら、絶妙の距離感でからみあう。仲のよい夫婦のようでもある。中盤に遠田がジャケットを脱ぎ、客席に放り投げた後、探し回るパフォーマンスも遠田さんのとぼけた味わいが笑いを起こしていた。最後は、ワイングラスをそれぞれ手にしてのデュエット。これも絶妙の感覚で、ワイングラスを受け渡ししていたかと思うと、こぼしてみたり、なかなかの芸達者である。

後半は、フィンランドのエーヴァ・ムイルさん。外国の女性らしいパフォーマンスというと嫌らしいが、表情とか身体の切れ、リズム感、感情の出し方などがいかにも「欧米」らしい。フットボールの試合に出てくるチアガールみたいというと何だが、日本人では出せない感覚である。こうした違った要素を盛り込むことで、逆に日本人の踊り手の特徴、得手・不得手が見えてくるという効果がある。エーヴァさんがフィンランドでどの程度の踊り手の方かは知らないが、日本人の方が、気というか、舞台から発するオーラのようなものでは勝っていたように思える。

最後は、公募で集まった女性3人がワークショップで作り上げた作品。いずれも何らかのダンス経験はある方のようであるが、やはりパフォーマンスとしての独自性や完成度は、これまでのプロの方とは開きがある。だが、素人が舞台で客席に身体をさらすことについての決意が、若干の痛々しさと大いなる勇気をもって語りかけてくるのは、初心者の強みか。

終演後には、参加者がそろってのアフタートークが行われた。身体で語るダンサーの話が上手くないのはまあ許すとしても、こうしたダンスのアフタートークの司会がいつも、グダグダなのはなぜだろう。質問している客席の方がしっかりしていた。それにしても、山田さんに「あれだけ頭を振っても障害は出ませんか」と行っていた客席の方には笑わせていただいた。

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2007年8月25日 (土)

氷の上の白鳥の湖

昨年は、中国雑技団とバレエのミックスしたような「白鳥の湖」を見たが、今年は、アイススケートによる「白鳥の湖」である。よくこのようなアイデアが出るものだと感心する。

公演の中身に関しても、もちろんアイデアが満載である。同じ「白鳥の湖」でも本家のバレエとどこが一番違うかといえば、このサービス精神だろう。今日の公演でも、フライング(宙吊り)や氷の上の炎の輪、竹馬のような背の高いスケートなど、競技としてのアイススケートでは見られない大掛かりな仕掛けが繰り出される。

その反面、逆に普通のスケーティングではだんだん飽きてくるのである。次はどんな仕掛けがあるのだろうという見方をしてしまう。そこは、バレエとは違うところである。一流のバレエは筋立てから振り付けまで知っていても、それでも楽しませてくれる。それが芸術というものの力なのだろう。もちろん二流ではだめであるが。

もう一つ思ったのが、意外とこけたり、つまずいたりする人が多い。私が見た公演だけ特に調子が悪かったのかもしれないが、私が気づいただけでも数人はいる。バレエほか芸術分野では、ノーミスが基本であるが、ある程度のミスを前提に公演しているのであれば、やはり芸術ではなく、スポーツの世界が融合しているからであろうか。

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2007年8月 4日 (土)

夏フェスその2

先週に引き続きびわ湖ホールの夏のフェスティバルを見る。

今回は、ロビーで行われるダンスピクニックから。先週とは違い、良い子には見せたくない「大人向き」の公演である。

最初は、contact Gonzo。少し遅れて到着したので途中から見た。その限りでは、男性3人の若者がお互いに殴りあったり、ひっぱたいたり、突き飛ばしたりというのが続くが、その合間に使い捨てカメラでお互いを撮り合ったりするというもの。最後に携帯電話が鳴るが、ほぼ無音で繰り広げられる。これが、ダンスかという作品。ただ、結構真剣になぐりあっているが、暴力的な感じはしない。まさにコンタクトである。仲の良い友達3人の会話のキャッチボールを、無音の身体表現に置き換えた感じといったらよいのだろうか。荒々しい中にも温かみの感じられる作品である。

続いては、東野祥子と大橋可也の「9(nine)」。これまたすさまじい作品である。大橋が東野を肩にかついで登場し、台の上に横たえる。最初、東野はぴくりとも動かないが、そのうち大きく痙攣して飛び上がる。どこの筋肉を使っているのだろうかと思わせる。しだいにのろのろと起き上がるが、視線はあらぬ方向を見ており、狂気が感じられる。起き上がったかと思っては倒れたり、手足を痙攣させたりといった動作が続く。その間、フラッシュライトが点滅し、ノイズがバックに流される。人体実験の現場か、人造人間の誕生を思わせる。夢に出そうなくらい怖い。ただ、ときおり手の上げ方や息づかいなどに素がまじる瞬間あある。これがなければ、本当に人間とは思えない世界を震撼させるダンスである。最終的には、また大橋にかつがれて退場するが、一度も足で立たないというのも、ダンスとしては極めて異例であろう。

本日のメインは、ドイツの気鋭のカンパニー「サシャ・ヴァルツ&ゲツス」の「ケルパー(身体)」。文字通り物質としての身体にこだわった作品である。ダンスというと動きの斬新さとか、人と人との関連性、動きと音楽のかかわりなどが特徴であろうが、ここでは、人間の身体そのものを様々な視点からあぶりだしてくれる。ガラスケースの中にうごめく、意思のないくらげのような身体、内臓や整形手術の値段をからだに貼り付けるパフーマンス、2人一組で上半身と下半身が前後逆につながっている人を作り上げたり、人をかつぎあげ身長を黒板に記録するなど、細かいシーンが多数組み合わされている。ドイツのユダヤ博物館で上演された習作がベースになっているとのことであり、人の人格を否定し、人間を物質のように扱ったナチス時代が反映されているのかもしれない。ドイツ人が作るだけあって、感覚的というよりも観念的な作品である。

その後、スペシャルトークもあったが、構成がいまいちで、作品についての解説はあまりなかったのが残念。

最後に夜は、京都の劇団・地点の演劇でチェーホフの「かもめ」。私は日ごろ翻訳劇というのはほとんど見ないが、せっかくの機会なので付き合った。日常で話されることがない、いかにも演劇というようなセリフや、登場人物のやり取りなど、昔の中学や高校の演劇部でやりそうな芝居である。ただ、これまでが身体による表現だとすると、言語による表現という意味では共通する。というのは、言語の中身に意味があるのではなく、むしろ話し方、話すエネルギーなどでその人となりや人間同士の関係を表現しているように思えたからである。そう考えると、これも身体表現の一種なのであろう。ただし、直接的に五感に訴える感覚というのがダンスに比べると弱いような気がする。

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2007年7月29日 (日)

びわ湖ホール夏フェス

身体表現をテーマに2年に一度開かれるびわ湖ホールの夏のフェスティバルを見た。私のようにコンテンポラリーダンスって面白そうと思っているが、何を見てよいかという最初のとっかかりは分からない人は多いと思う。その中で、びわ湖ホールという公共ホールが厳選してお奨めの舞台を提供してもらえるのはありがたい企画である。

最初は、BATIKの「ペンダントイヴ」。主催の黒田育世の振り付けである。テーマは、はっきり言って不明である。アフタートークで上原館長が「子ども」がテーマかと聞かれたが、そうではないということであった。そこで、私の勝手な感想を交えて紹介したい。

冒頭、かなりの間、暗闇が続いた後、口笛に乗せて、天井から下がる吊り輪にぶらさがって、女性がくるくると回っている。闇と女性の白い衣装のコントラストの鮮やかな印象的な幕開きである。その女性を含めて3人の女性で舞台が始まる。最初に回っていた女性は子どもっぽいしぐさを見せる。それに母親のような女性と、奥にもう一人の少女という構図である。最初の女性2人は母と子の関係を思わせるが、幾分狂気じみたところもあり、昨今の養育放棄、児童虐待などのすさんだ親子関係を想起させる。そうこうするうちにカラフルな衣装をまとったダンサーの数が増えて10人ばかりになる。嬌声をあげながら無邪気に転げまわるダンサーたちは、幼稚園児のようでもあり、児童施設の子どもたちにも見える。いずれにしろ、どこか病んだ雰囲気を帯びている。と、途中でダンサーが服を脱ぎだし、裏向きに着ると全員が白か灰色っぽい衣装になる。アフタートークで黒田さんは、色の効果を考えた結果であると述べていたが、私は精神病院に変わったと考えた。こういうと精神病で苦しまれている方やご家族などには失礼かもしれないが、子どもと大人、普通の人と精神病者、そういったボーダーがないということがテーマではないかと考えた。

いずれにしても、1時間30分の舞台であるが、10人の女性が叫んだり、身体をぶるぶるふるわせたり、転がったりしているだけというのは、いささか長すぎるのではないかというのが率直な感想である。

続いて、大ホールロビーで無料公演がある。きたまり演出によるKIKIKIKIKIKIによる「Twin」。2人の太った女性によるダンスである。先のBATIKがすらっとしたダンサーの肉体であったのに比べて対照的である。とはいえ、お笑いの森三中を思わせる愛嬌のあるキャラである。この2人が突進したり、相撲をとったりするという何ということはないものだが、容姿の割りにバランスのいるポーズを決めたり、なかなか鍛えられれている。今日の4作品の中で、「もう一度見たいものは?」と聞かれたら、これを挙げるだろう。

もう1作品の無料公演は、まことクラヴの「場外」。びわ湖ホールのレストランは外にも席があるが、観客が内側にいて、外にいる演者を見るという仕掛けである。そこへ、何も知らない一般のお客さんが紛れ込んだか、と思うと仕込まれた人であったり、アイデアとしては面白い。ただし、ダンスとしてみると、振り付けや身体の使い方としては、もう一歩オリジナリティに欠けるきらいがある。

最後は、じゃれみさの寺田みさこによる初のソロ作品「愛音」である。これまたテーマを説明しにくい作品である。最初、寺田は空き缶の入ったごみ袋と思しきものをひきずりながら舞台に登場する。最初にかぶっていた帽子を取ると下は坊主頭である。そのうち、ティッシュペーパーを箱から引っ張り出したりしているうちに、マイクや椅子やら、果ては天井からも泡が湧き出してくるという、何やら得たいのしれない作品。坊主頭にしたおかげで妙に中性的な魅力がある。少年のようといってよいのか。おまけに指をくわえたり、ティッシュに、泡が小道具であるから、性的な妄想の世界かと思ってしまう。こちらは上演1時間と時間的なおさまりもいいのだが、感想としては、???なものを見せられたという感じである。

終演後は、黒田育世と寺田みさこも参加してのアフタートークがあった。ダンスの公演はこういったアフタートークが催されることが多い。言葉でなく、身体で語る舞台だけに、演者も見る側も言葉で補おうとするのだろうか。しかし、先にBATIKの服を裏返した意味の話を書いたが、寺田みさこが坊主頭になった理由が、泡が髪に付いたらカッコウ悪いからというのもすごい。私が考えるような中性的なイメージを持たせる狙いはまったくないのだろうか。そう考えると、意味を探りながら見るよりは、もっと感覚的に見たほうがいいのかもしれない。ということが分かった1日であった。

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2007年6月30日 (土)

シンフォニック・バレエ「ラプソディ・イン・ブルー」

NHKのトップランナーに出演するなど注目のダンサー「服部有吉」と指揮者・金聖響、ジャズピアニスト・松永貴志のコラボレーションという話題性あふれる公演だが、空席も見られた。しかしながら、公演自体はたいへん素晴らしいものであった。私が最近観たものの中では断トツに面白い。終演後もお客さんの拍手が鳴り止まないことから、満足された方も多かったのだと思う。

公演は、バレエダンサーやコンテンポラリー、あるいはストリート系のダンスなど異なるジャンルの男性ダンサー12名で踊られる。明確な筋はないと思うが、一つの流れは感じられる。人によって受け止め方は違うのだろうが、私の感想は次のようなもの。

最初は、ドビュッシーの月の光によるプロローグ。ここでは特にストーリーはない。

続く、メンデルスゾーンの「イタリア」交響曲は、楽章ごとにテーマが変わる。

第1楽章は、衣装と役割の結びつきが面白い。ぎこちない動きの下着姿のダンサーが服を着せられることによりダンサーの動きになったり、色鮮やかなタキシードのバレエダンサーがバレエのジャンプを決めていたのが、上着を脱がされることにより、コンテンポラリーダンサーと同じ動きをしたりする。この人はバレエのダンサー、この人はコンテンポラリーのと決め付けてしまいがちな観客の思いを利用するとともに、本当にそのようなジャンル分けが必要なのかどうかを突きつけられているようである。

第2楽章は、オーケストラのみでダンサーは登場しない。

第3楽章は、白い服装のバレエ・コンテンポラリー系のダンサーと、黒い服装のストリート系ダンサーが入り乱れる。白いダンサー同士が出会うと握手をし、デュエットに入るが、白と黒が出会っても無視したり、対立したりする。ついつい、同じ仕事や収入程度の人とは親しくなるが、異なる世界の人は無視したり、反発したりしがちなものである。世界的にみても、国籍や人種や宗教の違いによる溝がある。そういった問題を思わせる。

第4楽章は、2組のグループがあり、それぞれに指導者ができる。指導者は、黒い上着を着せられることで表される。指導者は、周りをまとめ、他のメンバーは指導者と同じ動きをする。しだいに、指導者同士が対立したり、指導者を裏で操るものができたり、指導者が放棄して別のものに代わったり、代わった指導者が皆の信頼を得られず追放されたりする。そして、混乱のうちに終わる。これは、まさしく20世紀の各国の政治において繰り返されてきたことである。ここまで来ると、なぜ曲が、「ドイツ」の作曲家メンデルスゾーンの「イタリア」交響曲かということも意味があるように思える。

続いて、バーバー作曲のアダージョ。この曲は葬送の音楽として使われることで有名である。ここでは、2人の指導者を葬っているようである。2人は、上着を頭からかぶせられ、静かに床に座らされる。独裁者による20世紀のいまわしい過去を葬り去るかのように。

休憩後は、シェーンベルクの浄夜。しばらくは、ダンサーは前半の最後の座り込んだ姿勢のままじっと時を過ごす。シェーンベルクの退屈な音楽と動きのない展開だが、逆にときの経過というものを感じさせる。次第に、固まっていたダンサーの動きがほどけてくる。葬られたダンサーは、上着を脱がされ、他のダンサーの助けによって動きを取り戻してくる。動きを取り戻したダンサーは他のダンサーの動きを伝え、それは白いダンサーから黒いダンサーへも伝わっていく。ここでは、前半のような指導者もなく、黒と白の対立もない。音楽と共に感動的なクライマックスである。

以上のように、人と人との関係性というものを強く感じさせる作品である。日本人の作品としては、自分という個性を出すものや、集団の動きを追求するものはあるが、このような個人と個人、個人対集団を強く意識させる作品は珍しい。きわめてヨーロッパ的な感性ではないだろうか。この点において、演出家・振付家としての服部有吉はとても興味深い。

続いて、公演タイトルにもなっている「ラプソディ・イン・ブルー」。ここでは、これまでと完全に流れは断絶している。6人の主要ダンサーがそれぞれの持ち味を生かして踊る、ガラ公演のようなものである。服部の200度開脚をはじめ、超絶技巧の数々にはため息がでる。バレエもコンテンポラリーも、パントマイムもすべてがそれぞれ素晴らしいと実感する。そういう意味では、前半を受けた、個性をそれぞれ認め合った理想の状態が、この「ラプソディ~」なのかもしれない。

ダンサーとしては、辻本知彦が圧倒的に素晴らしい。コンテンポラリーダンサーだが、動きの安定感と切れは抜群である。動きが美しく、動き出しから静止まですべてに注意が行き届いている。もう一人の主役のラスタ・トーマスよりも良かった。名前を覚えておきたいダンサーである。

さて、本公演は、バレエと音楽の融合であるが、それについては今ひとつであろうか。オーケストラを舞台に上げ、ダンスと共に主役に位置付けているが、ダンサーの前ではどうしても伴奏に成り下がってしまう。PA(音響装置)も万全とはいえず、下手のオーボエが上手から聴こえるなど違和感があった。そういう点では、ダンスとオーケストラの相乗効果という当初の目論見の点では必ずしも成功しなかったと思う。

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2006年11月26日 (日)

マリンスキーバレエ「海賊」

海賊のパ・ド・ドゥといえばガラコンサートなどでの定番だが、全幕をレパートリーにしているところは意外と少ない。全幕が上演されないのは、ストーリーにまとまりがないからだとか、音楽がいろんな作曲家のつなぎあわせで物足りないからだとか言われるがどうだろう。

実際、同じバイロンの原作に基づきながら、先月びわ湖ホールで見たヴェルディのオペラとでは似ても似つかないストーリーになっている。これは筋立てよりも展開の派手さを優先した結果であろう。バレエのストーリーはあってないようなものという考えもあるが、筋がしっかりしていたほうが舞台への集中度が高まるのは確かであろう。音楽にしてもチャイコフスキーなどの充実度にはとうてい及ばないのはもちろんだが、アダン1人の手によるジゼルの方がいくぶんかましではないか。

第1幕は紗幕を通した海岸の場面から、色鮮やかな奴隷市場へと場面展開も鮮やかで、奴隷使用人でギュルナーレの踊りなど見せ場もあり、華やかである。衣装、装置なども凝っていて飽きさせない工夫がある。

2幕は、例のコンラッド、メドーラ、アリによるパ・ド・トロワ。グラン・フェッテやグラン・ジュテなどの大技が豪快に繰り出される一番の見所である。テリューシキナのメドーラ、サラファーノフのアリは共に若さあふれる切れのいい踊りを披露してくれた。人物造詣とか、全幕の中での位置づけなどを考えずに、ここだけを取り出してみれば、それは素晴らしい出来であった。

3幕はハーレムのシーン。花を手にした女性達の群舞が見所であるが、1幕のにぎやかしさ、2幕の技の応酬からすると、少し物足りない。それまでと比べて衣装や装置が地味になったこともあるが、コールドの出来もやや不揃いなところは残念であった。

全体を通してみても、やはり2幕の踊りが印象に残り、全幕としてもう一度見たいかと言われても乗り気がしない。やはり、芸術というのはご都合主義で作られたよりも、1人の天才の思想なりを表したものが最終的に残っていくということであろうか。

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2006年8月20日 (日)

アクロバティック白鳥の湖

この企画を考えた人は,なかなかの智恵者でしょう。

サーカス(雑技団)としてもバレエとしても一流とは言い難いながら,両者を掛け合わせることにより,素晴らしいエンターテイメントに仕上がってました。

サーカスとして考えると,ホールが大きすぎて舞台が大きいこと,舞台の高さが足りず空中ブランコなど高さを見せるものに迫力が足りないことは大きなハンデです。しかし,バレエとしてみると,確かにこれまで見たことのない技の数々には驚かされます。

何かと何かを掛け合わせて新しいものを作り出すというのは,だれでもが思い付きそうで,なかなか成功しないものです。それが成功しているのは,バレエとサーカスって,どこかでつながっているからじゃないでしょうか。いずれも社会主義の産物か?確かにどちらもボリショイが一流ですね。

しかし,最大の秘訣は,チャイコフスキーの音楽でしょうか。バレエだけでなく,いろいろなものを受け入れる懐の深い音楽です。まさに全世界に通じる普遍的な価値を持った音楽と言えるでしょう。

中国雑技団というローカリティと,チャイコフスキーというグローバリティの融合。ここにこそ,世界に通用する価値があるのだと思います。

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2006年8月19日 (土)

マラーホフのジゼル

フェスティバルホールでマラーホフとヴィシニョーワの出るジゼルを見た。

さすがにこの2人は,登場しただけで周囲が輝くようなオーラがある。

周りが日本人だからだろうか。マラーホフなどベルリン国立バレエと来たときよりもその存在が際立っているような感じがする。何か身のこなしが他のダンサーと違うような気がする。

では,公演自体に満足したかというとそこは微妙なところである。超一流の2人のこと,ジゼルのような定番の演目は,何十回,何百回と踊っているのだろうが,それゆえ完璧に作り上げられすぎて,すきがない。

特に2幕など,2人が踊ると,場面場面が,バレエの写真集に出てくるシーンがつなぎあわされたかのように美しい。

こうも美しいものには,かえってこちらが冷静になってしまい,話にのめりこんでいけない気がする。芸術ならではの,今そこに生まれる瞬間を味わうには,少し物足りない気がした。

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